天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

長岡藩士の墓碑

2018-08-13 | Weblog
 宇都宮市内、市役所の西1kmほどの所に六道の辻があります。
 六道辻は宇都宮と壬生、栃木を結ぶ交通の要衝で、木戸が設けられていました。
 昔から交通の要衝では、大きな合戦が行われましたが、
 戊辰戦争の際にも、ここで激戦が行われました。
 六道の辻の戦闘では、多数の遺体が散乱しましたが、
 官軍の戦死者は報恩寺に葬られたのに対し、
 旧幕府軍の戦死者はそのまま放置されました。
 近隣の人々がそれを憐れんで、仮埋葬しましたが供養もされずにいました。
 1874年(明治7年)、宇都宮藩士戸田三男等が墓碑を建設しました。
 この費用の原資となったのが、越後長岡藩の山本帯刀が提供した軍資金でした。

 宇都宮藩は、官軍として戊辰戦争に参加し、会津戦争にも出陣しました。
 会津城下飯寺村で越後長岡藩兵と戦い、
 戸田三男隊が越後長岡藩の山本帯刀及び部下7・8名を捕えます。
 山本帯刀の諱は義路ですが、通称の帯刀の方が広く浸透しています。
 越後長岡藩の上席家老だった人物です。
 1845年(弘化2年)、安田家の嫡男として誕生しますが、
 8歳の時に上席家老の山本家の養子となります。
 文武両道で神童といわれていたとの事です。
 幕末の長岡藩で北越戦争が起こりますが、長岡藩の大隊長として出陣します。
 長岡城落城後、藩主一家は仙台藩に、長岡藩兵は、仙台藩と米沢藩に逃れましたが、
 山本隊は鞍掛峠(別名八十里峠)で殿を務め、会津藩兵と合流して、
 会津の飯寺村で遊撃隊として、宇都宮藩兵を主力とする官軍と戦います。
 しかし、明治元年(1868年)9月8日早朝、帯刀は宇都宮藩兵に捕縛されました。
 官軍の軍監だった中村半次郎(後の桐野利秋)は、帯刀の才を惜しんで、
 恭順すれば命を助けようと申し入れますが、
 帯刀はこれを拒絶し、翌9月9日に、阿賀野川の河原で斬首されました。
 享年23歳でした。
 死に臨み、持っていた軍資金200両を宇都宮藩士戸田三男に差し出して、
 長岡藩兵の追善供養を求めたのが、墓碑建設の資金となりました。
 なお、帯刀の愛刀は、やはり戸田三男に託され、後に戸田藩主に献じられ、
 現在は栃木県護国神社に秘蔵されているとの事です。

 維新後、山本家は廃絶とされて、家名再興は許されませんでした。
 1883年(明治16年)2月に、山本家は河井家と共に家名再興を許可され、
 帯刀の長女、玉路が女戸主となり山本家を継ぎますが、結婚しなかったため、
 名門の山本家の断絶を恐れた人たちの計らいで、
 1916年(大正5年)に、長岡士族の高野家から養子に入ったのが
 後の連合艦隊司令長官山本五十六です。

 現在でも、この墓碑は近隣の方達によって清掃され、花なども供えられていて、
 毎年旧暦4月23日には、墓前祭も行われているとの事です。
 
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