天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

女性天皇・・・

2010-07-30 | Weblog
 一頃活発だった女性天皇の問題、
 秋篠宮家の悠仁親王殿下の誕生で、下火になった感じがあります。

 歴史的に見た場合、
 飛鳥時代の推古天皇以来、8代6人の女性天皇はいました。
 明治時代、男性優位の歴史観によって定められた、
 今の皇室典範の方がおかしいのだと思います。

 最も新しい女性天皇は、第117代の後桜町天皇で、
 江戸時代の天皇です。
 さて、現在の天皇陛下には皇太子殿下と言う男子の嫡出子がいます。
 秋篠宮と言う弟さんもいます。
 その先代の昭和天皇と香淳皇后の間に、
 今上天皇とその弟君の常陸宮がいます。
 更に、大正天皇とその貞明皇后の間には、
 昭和天皇の他、秩父宮、高松宮、三笠宮と男子のお子さんがいました。
 その前の、明治天皇には、
 大正天皇と言う男子のお子さんがいましたが、
 この大正天皇は明治天皇の正室、
 一条美子(はるこ)(後の昭憲皇太后)のお子さんではありません。
 明治天皇に男子が恵まれなかったため、
 明治時代には権典侍と呼ばれる側室が置かれ、
 その中の柳原愛子(なるこ)と言う人が大正天皇の実の母親です。

 実は、皇后(即位前には皇太子妃)が男子を産むことは、
 それほど普通のことではありませんでした。
 明治天皇の前の、孝明天皇、仁孝天皇、光格天皇、後桃園天皇まで、
 皇后が男子を産んでいません。
 その前の後桜町天皇は女帝でしたので、
 更にその前の116代の桃園天皇の皇后が、
 後桃園天皇を出産するまで遡らなければなりません。
 昭和天皇が生まれるまで、実に140年間、
 皇室には正妃から生まれた嫡出子の男子はいませんでした。
 現代社会において、
 皇室に側室を置くなどと言う事ができる訳ありません。
 
 何よりも、男女平等の社会です。
 今の内に、女性天皇の復活を検討すべきような気がします。

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ツタンカーメン墓の発掘

2010-07-15 | Weblog
 ツタンカーメンはBC1358年に即位し、
 同1349年に18歳で死去した古代エジプト第18王朝の王です。
 厳格な表記ではトゥトアンクアメンとなります。

 1922年のハワード・カーターが未盗掘の王墓を発見して以来、
 そのファラオの呪いとともに、名前が知れ渡り、
 今では一番有名な古代エジプトの王かも知れません。

 しかしならが、カーターが墓を発見するまでは、
 ツタンカーメンはその存在さえ知られていませんでした。
 今から3300年程前に
 ラムセス2世の第4王子のカエムワセトが作った王名表に
 ツタンカーメンの名がなかったからです。
 カーターは、王墓の近くで発見される古代資料から、
 ツタンカーメンの存在を信じ発掘を続けました。

 カーターは、小学校を卒業しただけで、
 アルバイトを転々としますが、絵の才能があったのでしょう、
 エジプトの発掘資料の模写の仕事から、考古学に興味を持ちます。
 しかし、発掘には莫大な経費が掛かります。
 その資金を提供したのが、イギリスの貴族カーナボン卿でした。
 カーナボン卿は、1902年ドイツで自動車事故を起こして重傷を負い、
 医者からエジプトでの療養を勧められ、
 エジプトに渡りますが、そこで、カーターと知り合います。
 そして、二人でツタンカーメン王の墓を追い求める訳です。

 発掘は、途中第一次世界大戦で中断されますが、
 1917年再開され、5年目に墓を発見する訳です。
 そして、カーターはイギリスにいるカーナボン卿に電報を打ち、
 発掘調査を中断します。
 2週間後に、カーナボン卿と共に、
 ツタンカーメン王の墓の扉を開く事になります。

 このカーナボン卿、何故このような資産を持っていたかと言うと、
 その夫人のアルミナが巨額の持参金を持って結婚したからです。
 そして、その持参金を出したのが、
 ロスチャイルド家の一人、アルフレッド・ロスチャイルドで、
 当時ロンドンの金融街の有力者でした。
 アルミナには戸籍上の両親はいましたが、
 アルフレッドが本当の父親だったと噂されています。
 いずれにしても、20世紀の考古学では最大の発見と言われる、
 ツタンカーメンの墓の発掘ができたのは、
 ロスチャイルド家の資金があったからである事は間違いありません。
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ニノン・ド・ランクロ

2010-07-03 | Weblog
 ニノン・ド・ランクロは1620年に生まれたフランスの女性です。
 彼女は貴族の家に生まれましたが、15歳の時に孤児となります。
 彼女は数ヶ国語を話し、美貌の上に才気煥発の教養豊かな女性で、
 身を立てるためクルチザンヌ(高級娼婦)になります。
 「クルチザンヌ」は宮廷を表す言葉から派生したもので、
 日本で言う「高級娼婦」とは語感が違うかも知れません。

 ニノンの相手には、
 当時のフランスの宰相リシュリューなども名を残しています。
 彼女は、三十代の半ばには娼婦業を引退、
 その後、85歳で亡くなるまで、
 17世紀フランスの有名サロンの女主人として
 上流人士たちとの交流を楽しみ、悠々自適な余生を送りました。
 彼女のサロンに出入りしていた人々が凄いのです。
 モリエール、ロシュフコー、ファントネルなど
 当時のフランスの錚々たる文士達で、
 ヴォルテールには彼女の死後、書籍代が遺贈されています。
 そして、彼女のサロンに出入りする文士達は、
 それぞれが彼女の批評を求めたと伝えられています。
 年老いても彼女の美しさは失われず、
 79歳にしてジュドワーヌという若い僧侶から
 想いを寄せられ、恋人にしています。
 正に、灰になるまでと言う感じですね。

 1705年10月17日、今から300年ほど前、85歳の生涯を閉じました。
 彼女は、「タルトレット・ド・ポム・ニノン」と言う
 リンゴのタルトレットにその名前を残しています。
 また、彼女は多くの語録を残しています。
 「美しい乳房とは、誠実な殿方の手の中にある乳房である。」
 「目を奪うほど美しいものが、いつも善いものとは限らない。
 しかし、善いものはいつでも美しい。」
 「男は計画だけはみんな悪者だが、
 そのくせ実行となると弱気になって、それを誠実だという。」
 「女は自分の愛していない嫉妬ぶかい男を嫌う、
 しかし自分の愛している男がやきもちを焼かなかったら、
 女は腹を立てるであろう。」
 「恋愛においては、恋したふりをする人のほうが、
 本当に恋しているよりも、ずっとうまく成功する」
コメント (1)
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