天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

鷹見泉石像

2024-05-28 | Weblog
 ここのところ古河藩家老の鷹見泉石のエピソードを書いて来ました。
 鷹見泉石と言えば、一番有名なのは、その肖像画だと思っています。
 参考までに画像を貼っておきます。

 描いたのは、泉石と交流のあった渡辺崋山です。
 西洋の陰影法を用いて色面の濃淡で顔の立体感を作りつつ、
 髪の毛一本一本や細かく短い線を重ねた眉毛、膨らみを感じさせる唇など、
 随所に崋山の鋭い観察眼にもとづく写実的な描写が光っている傑作であり、
 国宝に指定されています。
 因みに、明治以降の絵画で国宝になっているものがないので、
 絵画部門では、最も新しい国宝になっています。

 鷹見泉石が大塩平八郎を捕縛した話は前回書きました。
 天保8年(1837年)2月19日に決起した大塩平八郎は、
 40日ほど行方をくらましていたが、3月27日に自決しました。
 幕府の元役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、
 幕府や大名から庶民に至るまで、世間に大きな衝撃を与えました。
 乱の首謀者逮捕という重責を果たした鷹見泉石は
 翌4月、報告のため江戸に向かった土井利位に随行し、参府します。
 泉石は、江戸で多忙を極めた利位に代わり、
 土井家の菩提寺である浅草の誓願寺へ代参します。
 そして、その装束のまま渡辺崋山のもとに立ち寄ります。
 浅葱色の素襖に烏帽子を被った正装で、
 腰には利位から拝領したとされる小さ刀を指しています。

 鷹見泉石像は、このとき崋山がその正装の勇姿を写しとり、
 その後、本画を完成させて泉石の元に届けられたものであると言われています。
 鷹見泉石像の款記は
 「天保鶏年槐夏望日(とりどしかいかぼうじつ)写 崋山渡邊登」とあります。
 天保8年4月15日に渡辺崋山が写したということです。
 すでに画家としての力量を評価されていた崋山に、
 泉石が乱鎮定の象徴として肖像画制作を依頼、
 完成した画像を前に自らの功績を物語る構想があったのでは、
 との推論を述べる研究者もいるとの事です。

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大塩平八郎の捕縛

2024-05-08 | Weblog
 大塩平八郎はご承知の通り、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力で、
 大塩平八郎の乱を起こした事で有名です。
 天保の飢饉のために疲弊した市民を救うため、
 天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起しますが、
 同心の門人数人の密告によって蜂起当日に鎮圧されました。
 大塩は戦場から離れた後、河内国を経て大和国に逃亡しますが、
 数日後、再び大坂に舞い戻って
 下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏していました。
 しかし、これが発覚し、1837年5月1日(天保8年3月27日)、役人に囲まれる中、
 養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。
 大塩平八郎には生存伝説がある事を以前書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/s/%E5%A4%A7%E5%A1%A9

 大塩平八郎の潜伏が発覚したのは、
 この店に奉公していた17歳の女が帰省した際、
 その家では毎朝飯を入れた飯櫃に茶碗を添えて棚下に置く習慣があり、
 翌朝も空になったお櫃に飯を入れて出していると話した事が発端です。
 この情報を元に、大塩平八郎の捕縛に向かったのが、
 当時大阪城代だった土井利位の家老鷹見泉石です。
 この時の状況が、鷹見泉石の書いた日記に下記のように詳しく書かれています。

 3月26日、この通報を受けた泉石は、迅速に情報の裏付けを行い、
 捕方への指示を行うと共に、
 懇意にしていた大坂町奉行所与力内山彦次郎への根回しを行い、
 翌日の捕縛を決定しました。
 商家の路地口が開き、大塩が顔を出すと、
 室内での捕方を想定し長さを半分に仕立てていた樫の召し捕り棒で打ち合います。
 捕方の包囲を見て大塩平八郎は室内に引っ込み雨戸を締め切りにしました。
 「中斎先生ともいわれるもの、卑怯千万、出て勝負せい」との呼びかけに、
 大塩は「鉄砲、鉄砲」と答えますが、「鉄砲之なき事はとく知れて有る」とし、
 続いて、「大塩平八郎といわれ候もの、尋常に出てこい」との言葉に、
 「今出る、今出る」と応答します。
 養子格之助を突き殺した上、火薬を取り出し火をかけようとする気配があったので、
 雨戸を打ち破って突入したところ、
 大塩は、喉へ三度ばかり突き立てた脇差しを投げつけ火薬に着火したとの事です。

 先日行った、古河市の歴史博物館には、
 この捕縛の様子が詳しく展示され、上記の樫の召し捕り棒が展示されていました。
 
 
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