切腹は、日本独自の自殺の形式として、主として武士階級に定着していた習俗です。
その理由として、新渡戸稲造は「武士道」の中で、
「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、
勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたと指摘していて、
この説が、広く信じられています。
最初に切腹をしたのは、源為朝であるとの説があります。
為朝は、源為義の8男として、1139年(保延5年)に生まれます。
通称は鎮西八郎で、弓の名人として有名です。
1156年(保元元年)の保元の乱で、父に従って崇徳上皇方に属しますが敗北します。
為朝は逃亡の途中捕らえらますが、武勇を惜しまれて助命され、
弓が射られないよう、腕の筋を切られて、伊豆大島に流刑となります。
その後、為朝は伊豆諸島を従え国司に反抗したため、
1170年(嘉応2年)に伊豆介工藤茂光に追討され、八丈小島で自害します。
この時の自害の方法が、切腹だったとされていて、本邦初であったと言われています。
もっとも、為朝には、滝沢馬琴の「椿説弓張月」のように、
伊豆大島を抜け出して、琉球に渡り琉球王国を築いたとの伝説もあります。
もし、これが事実だとすると、最初の切腹は、また別な人物になってしまいますね。
切腹と言う手段は、平家一門の入水自殺のように、
必ずしも武士階級に固有のものではありませんでしたが、
鎌倉時代に、武士の習慣と武士道が広まるに従って定着して行ったようです。
その最初の人物として為朝が伝えられているのも、
彼に人気があったからなのかも知れません。
その理由として、新渡戸稲造は「武士道」の中で、
「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、
勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたと指摘していて、
この説が、広く信じられています。
最初に切腹をしたのは、源為朝であるとの説があります。
為朝は、源為義の8男として、1139年(保延5年)に生まれます。
通称は鎮西八郎で、弓の名人として有名です。
1156年(保元元年)の保元の乱で、父に従って崇徳上皇方に属しますが敗北します。
為朝は逃亡の途中捕らえらますが、武勇を惜しまれて助命され、
弓が射られないよう、腕の筋を切られて、伊豆大島に流刑となります。
その後、為朝は伊豆諸島を従え国司に反抗したため、
1170年(嘉応2年)に伊豆介工藤茂光に追討され、八丈小島で自害します。
この時の自害の方法が、切腹だったとされていて、本邦初であったと言われています。
もっとも、為朝には、滝沢馬琴の「椿説弓張月」のように、
伊豆大島を抜け出して、琉球に渡り琉球王国を築いたとの伝説もあります。
もし、これが事実だとすると、最初の切腹は、また別な人物になってしまいますね。
切腹と言う手段は、平家一門の入水自殺のように、
必ずしも武士階級に固有のものではありませんでしたが、
鎌倉時代に、武士の習慣と武士道が広まるに従って定着して行ったようです。
その最初の人物として為朝が伝えられているのも、
彼に人気があったからなのかも知れません。