天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

最初の切腹

2012-11-29 | Weblog
 切腹は、日本独自の自殺の形式として、主として武士階級に定着していた習俗です。
 その理由として、新渡戸稲造は「武士道」の中で、
 「腹部には、人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰」から、
 勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされたと指摘していて、
 この説が、広く信じられています。

 最初に切腹をしたのは、源為朝であるとの説があります。
 為朝は、源為義の8男として、1139年(保延5年)に生まれます。
 通称は鎮西八郎で、弓の名人として有名です。
 1156年(保元元年)の保元の乱で、父に従って崇徳上皇方に属しますが敗北します。
 為朝は逃亡の途中捕らえらますが、武勇を惜しまれて助命され、
 弓が射られないよう、腕の筋を切られて、伊豆大島に流刑となります。
 その後、為朝は伊豆諸島を従え国司に反抗したため、
 1170年(嘉応2年)に伊豆介工藤茂光に追討され、八丈小島で自害します。
 この時の自害の方法が、切腹だったとされていて、本邦初であったと言われています。

 もっとも、為朝には、滝沢馬琴の「椿説弓張月」のように、
 伊豆大島を抜け出して、琉球に渡り琉球王国を築いたとの伝説もあります。
 もし、これが事実だとすると、最初の切腹は、また別な人物になってしまいますね。

 切腹と言う手段は、平家一門の入水自殺のように、
 必ずしも武士階級に固有のものではありませんでしたが、
 鎌倉時代に、武士の習慣と武士道が広まるに従って定着して行ったようです。
 その最初の人物として為朝が伝えられているのも、
 彼に人気があったからなのかも知れません。
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置き文伝説

2012-11-20 | Weblog
 室町幕府を創設した足利尊氏の出自である足利氏は、
 平安時代に河内源氏の棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男源義国が
 下野国足利荘(栃木県足利市)を領有した事に始まり、
 次男、源義康以降子孫は足利氏を称するようになっています。
 新田氏が義国の長男義重を祖としていますので、同祖の関係になります。

 この足利氏には、源義家が書き残した、
 「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が
 存在していたと言われています。
 義家の七代の子孫にあたるのが、1260年(文応元年)に生まれた足利家時です。
 家時は、自分の代では達成できないため、
 八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害します。

 家時の三代後の子孫が、足利尊氏や弟の足利直義になります。
 彼らは、この置き文を実際に見たと、
 今川貞世(了俊)が著した「難太平記」に記されています。
 著者の貞世も見たとも書いてあるそうです。

 尊氏・直義兄弟は、鎌倉幕府を滅ぼして、
 後醍醐天皇の建武政権樹立に多大な貢献をしますが、
 北条高時の子北条時行が中先代の乱を起こして鎌倉を占拠したのに対し、
 天皇に無断で鎌倉に下って乱を平定したのを機に、
 建武政権から離反して再び武家政権を樹立する運動を開始します。
 家時の置き文が尊氏挙兵の動機とも考えられています。

 家時の置き文には偽作説も唱えられていますが、
 家時が執事高師氏に遣わした書状を、
 師氏の孫で尊氏の執事となった高師直の甥である高師秋が所持しており、
 直義がこれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文を送って、
 正文は自分の下に留め置いた、という文書が残っているそうです。
 足利氏10代の願いが室町幕府に至ったのかも知れません。
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サントシャぺル

2012-11-05 | Weblog
 パリを訪れた方は、パリの中心部のシテ島にある
 サント・シャペルをご覧になった方も多いかと思います。
 サント・シャペルは「聖なる教会」という意味で、ゴシック建築の教会の傑作です。
 1241年に計画され、1248年に完成しました。
 建設を進めたのは、ルイ9世でした。

 ルイ9世は、サント・シャペルを王宮の礼拝堂として造営しました。
 また、サント・シャペルは、聖遺物が納められました。
 ルイ9世は、敬虔なキリスト教徒として有名な王でした。
 エルサレムがイスラム教徒に占領されると、これを取り戻すため、
 1248年に第7次の十字軍を編成し、自らが率いてエジプトに攻め入ります。
 この時は、戦いに敗れ、捕虜となりますが、莫大な身代金を支払って解放されます。
 晩年の1270年には、第8次十字軍を編成し、
 チュニジアに攻め入りますが、この地で戦病死しています。

 ルイ9世は、キリストの聖遺物を熱心に集めました。
 サン・ドニ修道院に保管してある聖遺物「キリストの釘」が盗まれた時、
 「これを失くすよりフランスの最も栄えた都市が地に飲み込まれる方がましだ。」と
 述べたと伝えられています。

 さて、サント・シャペルに納められた聖遺物ですが、キリストのかぶった荊冠でした。
 ルイ9世は、このキリスト受難の貴重な聖遺物を
 コンスタンティノープルのラテン帝国皇帝ボルドワン2世から
 135,000リーブルの大金を支払って購入しました。
 サント・シャペル全体の建築費が40,000リーブルだった事を考えると、
 いかに巨額なものだったかが分かります。
 また、聖十字架のかけら等の聖遺物も加えられたようです。

 こうした事から、ルイ9世は、死後ローマ教皇から聖人に列せられます。
 以降、サン・ルイと呼ばれるようになり、アメリカのセントルイスの由来になります。
 なお、サント・シャペルに納められた荊冠は、
 その後、近くのノートルダム大聖堂に移されたとの事でが、
 現在も収蔵されているのかどうか、分かりませんでした。
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