天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

渾沌

2014-05-30 | Weblog
 色々複雑に絡まっている時など、
 渾沌(こんとん)・混沌としているなどと言います。
 この渾沌の語源は、中国の神話に登場する怪物の一種です。

 どのような怪物かと言うと、
 犬のような姿で長い毛が生えていて、爪の無い脚は熊に似ています。
 目はありますが見えず、耳も聞こえません。
 脚もあるのですが、いつも自分の尻尾を咥えてグルグル回っているだけで、
 前に進むことは無く、空を見ては笑っていたとされています。
 善人を忌み嫌い、悪人に媚びるとも言われています。
 また、頭に目、鼻、耳、口の七孔が無く、
 脚が六本と六枚の翼が生えた姿で現される場合もあるとの事です。

 荘子には、目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場します。
 南海の帝と北海の帝は、渾沌の恩に報いるため、
 渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまったとあり、
 転じて、物事に対して無理に道理をつけることを
 『渾沌に目口(目鼻)を空ける』と言われています。

 渾沌は、中国の神話に登場する四凶の一つとされています。
 春秋左氏伝によると、この渾沌の他に、
 「饕餮(とうてつ)」、「窮奇(きゅうき)」、
 「「檮杌(とうこつ)」となっています。

 饕餮は、体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、
 人の顔などを持っています。
 饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意で、
 何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、
 魔を喰らう、という考えが生まれ、
 後代には魔除けの意味を持つようになりました。

 窮奇は、前足の付け根に翼を持ったトラの姿をしていて、空を飛びます。
 ひねくれた性格をしていて、
 人が喧嘩していると正しいことを言っている方を食べ、
 悪人がいると獣を捕まえてその者に贈ると言われています。
 なお、窮奇は、
 日本に入って、鎌鼬と呼ばれる妖怪に姿を変えたようです。

 檮杌は、虎に似た体に人の頭を持っており、
 猪のような長い牙と、長い尻尾を持っているとされています。
 尊大かつ頑固な性格で、荒野の中を好き勝手に暴れ回り、
 戦う時は退却することを知らずに死ぬまで戦うと言われています。

 それぞれ不気味な感じがしますね。
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ジャンヌ・ルイーズ・カルマン

2014-05-19 | Weblog
 ジャンヌ・ルイーズ・カルマンと言う女性をご存知でしょうか?
 彼女はフランス人です。
 1875年2月21日に生まれ、1997年8月4日に亡くなりました。
 実に、122年と164日間生きた訳で、
 現在公式記録が残っている人間の中では、最も長生きしました。
 還暦を2回迎える、いわゆる大還暦を経験した唯一の人類でもあります。

 彼女の兄は97歳、父は94歳、母は86歳まで生きましたが、
 やはり長命の家系である事は間違いないでしょう。
 フェンシングを85歳から始め、
 100歳まで自転車に乗っていたと伝えられています。
 彼女が有名になったのは、
 1988年にゴッホの百年記念の際、
 直接会った人としてインタビューを受け、
 ゴッホの事を「汚くて、格好も性格も悪い人」だったと
 語った事であったようです。

 114歳に本人役で映画「Vincent and Me」に出演して、
 史上最年長の女優にもなっています。
 117歳になるまで喫煙したとの事です。

 早稲田大学の創立者、大隈重信は、人間125年寿命説を唱えていました。
 余り根拠のある説ではなかったと思いますが、
 これに近い寿命の人がいた事になります。

 日本人では、120歳で1986年(昭和61年)に亡くなった、
 泉重千代が一番の長命とされてきましたが、
 どうも兄の戸籍と混同されてきたような話で、現在では否定されているようです。
 現在では、昨年6月12日に亡くなった、
 京都府丹後市に在住した木村次郎右衛門が
 116歳と54日で歴代最高齢記録の男性となっています。
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崇徳上皇

2014-05-05 | Weblog
 崇徳上皇は1119年(元永2年)に生まれ、第75代の天皇になった人です。
 1123年(保安4年)、僅か5歳で即位し、
 1142年(永治2年)に近衛天皇に譲位しています。
 上皇になった後も政治の実権は、父親の鳥羽院が握っていました。
 鳥羽院の死後、1156年(保元元年)、後白河天皇と争い、
 保元の乱を起しますが、これに敗れて讃岐国に流されます。

 讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒し、写経をして、
 その写本を、戦死者の供養と反省の証にと、朝廷に差し出したところ、
 後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑って
 これを拒否し、この写本を送り返してしまいます。

 これに対し、激しく怒った崇徳は自分の舌を噛み切って、その血で写本に
 「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」、
 「この経を魔道に回向す」と書き込みます。
 爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、
 後に生きながら天狗になったとも言われています。
 1164年(長寛2年)に讃岐で崩御しますが、
 遺骸を火葬にした際、その煙は都の方角にたなびいたとも伝えられています。

 この崇徳上皇については、多くの怨霊伝説の元になっています。
 平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、
 公家の政治から武家の政治に替わる中で、
 京都の人々の生活を苦しめた様々な現象の原因が、
 崇徳上皇の怨霊であると考える人が多かったからでしょう。

 この崇徳上皇の御神霊なのですが、現在は京都に帰っています。
 帰ったのは、1868年(慶応4年)の事です。
 当時の明治天皇は、勅使を讃岐に派遣し、
 崇徳上皇の御陵の前で宣命を読み上げます。
 この日は8月26日の事で、上皇の命日でした。
 翌日、上皇の遺影を神輿に奉じ、勅使が京都に連れ帰り、
 京都の飛鳥井町に新たな白峰神社を創建して祀ります。

 何故、上皇の死後700年も経過してから、
 このような措置を講じたのか興味が湧きます。
 慶応4年は、戊辰戦争の年です。
 朝廷は、奥羽諸藩と一戦交えようとしていました。
 このような時、上皇の怨霊が奥羽諸藩に味方し、
 官軍が敗れては大変だとの思いがあったのでしょう。
 明治天皇の宣命の中にも、
 「此頃皇軍に射向い奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて
  天下安穏に護り助けたまえ」との一文が入っているとの事です。

 日本の怨霊信仰の根深さを感じるとともに、
 明治政府の成立前の朝廷の人々の不安感がよく分かる話だと思います。
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