天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

エカテリーナ1世

2013-05-20 | Weblog
 エカテリーナ1世は、ロシアのロマノフ王朝の6代目の君主で、
 かつ第2代のロシア皇帝として、初めて女性で皇帝位に就いた人です。

 彼女は、1684年リトアニアの農民の娘として生まれます。
 名前は、マルファ・スカヴロンスカヤと言いました。
 1701年スウェーデンの竜騎兵と結婚しますが、
 当時はロシアとスウェーデンの戦争が続いていて、
 夫は戦死し、彼女はロシア軍の捕虜となって、
 あるロシア人将軍の妾となります。
 この頃、ロシア正教に改宗し、
 名もエカテリーナ・アレクセーエヴナと改めています。
 その後、ロシア貴族メンシコフの妾となり、
 更に、メンシコフからピョートル1世に献上されます。

 ピョートル1世は、
 1689年に最初の妻エウドキア・フョードロヴナ・ロヴーヒナと結婚して、
 嫡子のアレクセイも生れていますが、1698年に離縁しています。
 ピョートル大帝はエカテリーナを大変気に入り、
 1707年ワルシャワ近郊で密かに結婚しました。

 更に、1712年サンクト・ペテルブルグで正式に結婚し、
 彼女はロシア皇后となります。
 二人の間には12人もの子供が生まれています。

 1725年に入ってピョートル1世の死期が近くと、
 有力大貴族はピョートルの長男アレクセイの子
 ピョートル・アレクセーエヴィチを後継に推し、
 メンシコフなど新興勢力は皇后のエカテリーナを推して対立します。
 サンクトペテルブルクでピョートル1世が崩御すると、
 皇后側に付いた近衛部隊が元老院を押さえ、
 皇后は同日中にエカテリーナ1世として即位します。

 即位後、ピョートルの改革路線を継続しようとしますが
 すぐに挫折してしまいます。
 1725年にペテルブルクに科学アカデミーを設立し、
 ベーリングの極東探検などが行われますが、
 在位2年で、1727年彼女も没してしまいます。
 彼女の後継として、ピョートル1世とエドウキアの孫、
 ピョートル・アレクセーエヴィチがピョートル2世として即位しますが、
 彼も在位3年ほどで没してしまいます。

 ピョートル1世の死後、エカテリーナ2世が即位するまでの37年間に、
 6人の皇帝が即位します。
 皇帝の地位が不安定なだけに、貴族の地位は法的にも経済的にも向上し、
 これにより、ロシアに身分制度が根付き、農奴制が定着します。
コメント (2)
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棟方志功と円空

2013-05-07 | Weblog
 棟方志功は、言うまでもなく、日本を代表する芸術家の1人です。
 版画を「板画」と称して、
 生命力、躍動感に溢れた力強い作品を多く生み出していて、
 今も、多くのファンを持っています。
 少年時代にフィンセント・ファン・ゴッホの絵画に出会い感動し、
 「わだば、ゴッホになる」と芸術家を目指して上京する話は有名です。

 円空は、江戸時代前期の僧侶で、また数多くの仏像を残しています。
 時代によって作風も変わっていますが、力強く野性味に溢れながら、
 優しい不思議な微笑みをもった仏像が多く、
 彼の仏像に惹かれる人も多いと思います。

 さて、時代が大きく違う二人ですが、
 以前読んだ梅原猛さんの「歓喜する円空」に面白い話が載っていたので、
 書いておきます。

 名古屋市千種区に、医王堂鉈薬師と言う小さなお堂があります。
 ここに、1669年(寛文9年)、円空38歳頃に彫った十二神将像があります。
 ある日、鉈薬師堂を訪れて神将像を見た棟方志功は、
 「ここに俺の親父がいる。」と言って像に抱きついたとの事でした。

 このエピソード、何となく棟方志功らしいと言う感じがします。
 ちなみに、円空は仏像ばかりでなく、絵画も残しています。
 上記の本には何枚かの絵画も載せられています。
 それを見ると、何となく棟方の絵や板画に通じるような感じもあります。
 恐らく、棟方は円空の絵を見ていないと思いますが、
 その仏像の中に、
 自分と同じ要素がある事を芸術家の直感として感じたのだと思います。
コメント (2)
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