天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

2022-07-24 | Weblog
 昨日は、土用の丑の日でした。
 今年は8月4日も土用の丑の日で、二の丑と呼ばれます。
 昨日は、鰻を食べた人もいらっしゃると思います。
 鰻は、縄文時代から食べられていた事が
 貝塚から発見される骨などで分かっています。
 弥生時代には、筌(うけ)と呼ばれる、
 漏斗状の口から入ってきた魚介類を閉じこめて捕獲する漁具があり、
 遺跡から発掘されていますが、
 これは現代の筌と、それほど違わないもののようです。

 奈良時代には、既に鰻は滋養分に富んだ魚であると認識されていたようで、
 万葉集に次の歌があります。
 巻16に、「嗤笑歌(ししょうか)」との題の付いた2首の歌があります。
 嗤笑歌は笑いの歌と言う意味で、詠んだのは大伴家持です。
 「石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り食(め)せ」
 (石麻呂さんに私はあえて申し上げたいことがある
  夏痩せによく効くと聞きます ウナギを捕って召し上がれ)
 もう1首が、
 「痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るな」
 (いくら痩せても生きていたならそれでいいであろうのに
  万が一にもウナギを捕ろうと川に流されたりするな)
 石麻呂と家持は仲が良かったようで、
 この2首は、石麻呂が家持に万葉集に載せるよう勧めたとの事です。

 江戸初期の1643年に刊行された『料理物語』は、
 一般読者向けに出版された日本で最初の料理書ですが、
 鰻の調理法として
 「なます さしみ すし かはやき(蒲焼き) こくせう(濃醤、味噌汁の一種) 
 杉やき 山椒みそやき 此外いろいろ」と書かれていて、
 現代より調理法が多彩だったことが分かります。
 この頃の蒲焼きは、うなぎを割かずに丸ごと串刺しにして焼き、
 屋台で売られていました。
 山椒味噌やたまり醤油を塗って食べていたようです。
 ぶつ切りにして串に刺した姿が蒲(ガマ)の穂に似ていたところから
 蒲焼と名づけられたといわれています。
 現在のように開いた蒲焼きが登場するのは、
 元禄時代(1688年〜1704年)の事です。
 蒲焼きはまず上方で流行し、江戸にやって来て発展しました。
 関東の蒲焼きは背開き→串打ち→素焼き→蒸す→たれ焼きにします。
 関西の蒲焼きは腹開きにして、蒸さないところが違います。
 関東では、腹開きが切腹に繋がる事から
 それを嫌って背開きにしたと言われています。

 江戸時代、鰻は江戸市中でもたくさん獲れました。
 江戸は大小河川と運河が張り巡らされた水の都でしたから、
 鰻はいたるところに生息し、江戸城のお堀にもいました。
 「江戸前」は一般的に東京湾でとれた魚介を指しますが、
 当初は江戸城の東側から大川(隅田川)まで、
 つまり江戸城の前を流れる水路や川、
 江戸湾(東京湾)の沿岸でとれる鰻を「江戸前」と呼び、
 それ以外は「旅鰻」などと呼びました。
 したがって、江戸前の元祖は、鰻との事です。

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生き返った死刑囚・・・

2022-07-12 | Weblog
 1872年(明治5年)11月28日、松山高石垣(現在の松山市藤原町)の徒刑場で、
 田中藤作の死刑が執行されました。
 田中藤作は、その年に起こった神仏分離令絡みの暴動である、
 久万山・久米騒動で放火したとの事で死刑を申し渡されていました。

 明治政府は1870年(明治3年)に斬首など従来の死刑執行方法に代わり、
 絞首刑にすると布告(新律綱領 明治3年12月20日布告第944号)を
 出していました。
 この時最初に導入されたのが絞柱という懸垂式の処刑器具でした。
 この器具は死刑囚のうなじに縄をかけ、
 その縄の先に20貫(約75Kg)の重石を吊り下げて絞首する仕組みでした。
 当時の慣習では死刑囚の遺骸は引き取り手がなければ
 解剖されることになっていましたが、藤作は親族が引き取りました。
 徒刑場から1里(約4Km)ほど運んだところで、
 藤作の棺桶からうめき声が聞こえたため、
 蓋をあけたところ藤作が蘇生していて、村に生きて戻りました。

 村人は、松山県から改称された石鐵県(せきてつけん)の聴訟課に
 蘇生の事実を届出、今後についての指示を仰ぎました。
 江戸時代の死刑は斬首でしたから、生き返るという前例がなかったため
 中央に対処方法の指示を仰ぎました。
 中央政府から指示が届いたのは翌1873年(明治6年)9月の事でした。
 その文章には
 「スデニ絞罪処刑後蘇生ス、マタ論ズベキナシ。
  直チニ本籍ニ編入スベシ」というもので、
 生き返ったとしても既に法に従い刑罰としての執行は終わっているのだから、
 再び執行する理由はない、よって戸籍を回復させよというものでした。
 これは革命前のフランスでは絞首刑で稀に蘇生した死刑囚がいて、
 この場合国王が赦免した事例があったことが参考とされたようです。

 藤作は26年後の1898年(明治31年)まで生きたとされていますが、
 4年後には死亡したという話もありいずれかははっきりしていないようです。
 ただ藤作は一時的に仮死状態になった後遺症のためか、
 精彩を欠き小さな小屋で孤独な生活をしていたと言われています。
 こうした経過から、この事件は、
 「田中藤作蘇生事件」とも「石鐵県死刑囚蘇生事件」とも呼ばれています。

 この絞柱では、田中藤作の外にも詳細は伝わっていませんが3人の蘇生があり、
 このため、僅か2年しか使われず絞罪器械図式に変更されました。
 現行の執行施設は、絞架踏板式のうち地下絞架式ですが、
 絞罪器械図式は、地上に設けるものとなっている以外は、ほぼ同じとの事です。

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マルゼルブ

2022-07-01 | Weblog
 マルゼルブの正式な名前は、
 クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブです。
 1721年12月6日に産まれました。
 父親は法曹貴族のギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニルです。
 1741年代訴官長代理に任じられます。
 1744年パリ高等法院の評定官となり、
 1750年、尚書局長に就任した父の跡を継いで租税法院長に就任します。
 またほぼ同時に尚書局長に属する出版統制局長を兼任します。
 マルゼルブの出版統制局長時代の1751年には、
 ディドロ、ダランベールが編集した『百科全書』の刊行が始まり、
 ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)、『新エロイーズ』(1761年)、
 『エミール』(1762年) 、エルヴェシウスの『精神論』(1758年)、
 ヴォルテール『カンディード』(1759年)と、
 フランス18世紀思想を代表する書籍が次々に出版されましたが、
 キリスト教勢力を抑えながら、それらがスムーズに刊行されるよう配慮しました。
 しかし、マルゼルブの配慮にもかかわらず、
 1758年『精神論』の出版許可が取り消され、
 1759年『百科全書』が刊行停止に追い込まれた。
 1763年、父のブランメニルがルイ15世の不興をかって追放されたため、
 出版統制局長を退任し、
 1771年、租税法院廃止にともない同法院長を退任しています。

 1775年7月、ルイ16世の宮内大臣に就任、
 翌年財務総監テュルゴーとともに大臣を辞職しますが、
 1787年、国務大臣に再任されています。
 二度目の大臣を辞職する頃『出版自由論』を執筆しますが、
 その主旨は、
 「真理の発見のためには国民の自由な討論が不可欠であり、
  その自由な討論のためには出版の自由が不可欠である」というものでした。

 1789年にフランス革命がはじまります。
 当時70歳に近かったマルゼルブは、
 政界を引退し、国外に革命騒ぎを避けていました。
 1792年、ルイ16世が法定に立たされる事になりました。
 誰も引き受け手のなかったルイ16世の弁護人の話を聞き帰国し、
 弁護士を引き受けます。
 その時、彼が言ったのは、
 「世人が全て王の閣僚たることを大いなる栄誉として願い求めていた頃、
  余は二度までも、その台閣につらなる事を得た。
  いまや諸人がみな王側に立つ事を危うしとする時、
  余は彼のためにその奉公を尽くすべき義務がある。」でした。
 これに対し、ルイ16世は
 「わたしがもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿とわかち、
  わたしに残されている半分の玉座とふさわしくなるでありましょうに」と
 マルゼルブに感謝しています。
 御存知の通り、ルイ16世は、1793年1月に処刑されます。
 その処刑後マルゼルブは田舎に引きこもっていましたが、
 12月に反革命主義者として逮捕され、
 翌1794年4月22日に処刑されました。

 この節義の士マルゼルブについては、余り取り上げられていませんが、
 サント・ブーブはその『月曜閑話』で讃えていますし、
 カーライルの『フランス革命史』で、
 言葉をきわめて彼の進退を特筆しているとの事です。

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