天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ファウスト・・・

2019-07-23 | Weblog
 ファウストと言うと、真っ先に思い出すのが、
 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの戯曲だと思います。
 この戯曲のファウストは、二部構成になっていて、
 第一部は1808年、第二部はゲーテの死の翌年1833年に発表されました。

 ファウストは16世紀の実在の人物だとされています。
 名前は、ヨハン・ゲオルク・ファウストで、
 占星術師、錬金術師だったようで、ファウスト博士とも呼ばれていました。
 ヴュルテンベルクのクニットリンゲンまたはハイデルベルクで生まれ、
 1509年1月15日、
 ハイデルベルク大学で神学博士号の16人の授与された者の一人との説があります。
 生前は各地を放浪し、
 マルティン・ルターからは悪魔の力を借りていると非難されたとも言われ、
 余り芳しい評判ではなかったのかも知れません。
 1538年には、ドイツのフォン・シュタオフェン男爵に雇われています。
 最期は錬金術の実験中に爆死したとされ、五体はばらばらとなったと言われ、
 このことから伝説が生まれたのかも知れません。

 1587年、フランクフルトの出版店主であるシュピースなる人物が、
 「ヨハン・ファウスト博士物語」と題する一書を刊行し、
 これがたちまち全欧州的反響を呼び、
 相次いで各国語への翻訳が出た事から、ファウスト伝説が定着したのでしょう。

 イギリスでは、1592年頃に、早くもシュピース本の英訳が出て、
 直ちに奇才クリストファー・マーロウがこれを劇化しています。
 悪魔メフィストフェレスとの契約も、美女ヘレナへの恋着も、地獄落ちも、
 総てお膳立てはシュピース本で整っていたようです。

 ゲーテは子供の頃、旅回り一座の人形劇「ファウスト博士」を観たとの事であり、
 若い頃からこの伝説に興味を抱いていたようです。
 そして、様々なファウスト伝説を取材し、
 彼を主人公とする長大な戯曲を書き上げたのでしょう。

 尚、人形芝居ファウストに関する最古の記録は、
 1746年のハンブルクでの公演との事です。
 芝居の台本は10種程が現存しているようです。
 この人形芝居の基となっているのは、クリストファー・マーロウの戯曲です。

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渋沢栄一のザレ歌

2019-07-11 | Weblog
 少し古い話になりましたが、
 今年の4月9日に、財務省は2024年度上半期からの新紙幣の図柄を発表しました。
 新1万円札には、戦前の実業家である渋沢栄一が選ばれ、
 彼の事が色々と話題になりました。

 渋沢は、1840年(天保11年)、
 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)で、豪農の長男として生まれます。 
 徳川慶喜の家臣、後に幕臣となり、
 パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する
 慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として、フランスへ渡航し、
 ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行しています。
 明治維新後、大蔵省に入り、退官後は、
 官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取となり、
 七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導しました。
 また、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市(現東京急行電鉄)、
 秩父セメント、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、
 東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、
 その数は500以上といわれています。
 1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる竜門社が組織されます。
 渋沢は、「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、
 財閥を形成しませんでした。
 教育や社会福祉にも大きな足跡を残し、ノーベル平和賞の候補にもなっています。
 1931年(昭和6年)に死去しました。

 東京都の飛鳥山公園には、渋沢の資料館がありますし、
 敷地内には、喜寿を記念して清水組から贈られた木造の洋風茶室の晩香廬、
 渋沢の傘寿と子爵昇爵を祝って、竜門社会員から贈られた青淵文庫などもあります。
 写真などは、下記をご覧下さい。
 https://blogs.yahoo.co.jp/tennnennkozi/66641356.html

 淮陰生の「一月一話」に、渋沢栄一がよく口にしていたザレ歌が載っていました。
 朝寝坊 昼寝もすれば 宵寝する 時々起きて居眠りをする と言う歌です。
 この歌は、栄一の四男で、東京宝塚劇場会長や東宝取締役会長を勤めた渋沢秀雄が、
 その著作の「攘夷論者の渡欧」の中に出てくるとの事です。
 子供達が朝寝坊をしていると、
 襖越しに、こんなザレ歌を口ずさみながら、好い加減に起きろと促したそうです。

 もっとも、この歌が栄一の作かどうかは分からないようです。
 あるいは、栄一がどこかで聞いて、使っていたのかも知れないと淮陰生も書いています。

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