天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ペリーが頭を下げた男

2016-02-23 | Weblog
 ペリーについては、以前その肩書きが経緯を含めて面白かったので書きました。
 英語の表記では、
 Commander-in-Chief,U.S.naval forces in the East India,China seas,
 and Spesial ambassador to Japanで、
 幕府に提出された漢訳では、
 亜美理駕合衆国特命欽差大臣専到日本国師船現泊日本海提督被理となっています。

 ペリーは、威張った人だったようで、挨拶や合図の声も大きかった事から、
 水兵などの乗組員からは、「熊おやじ」(Old Bruin)とのあだ名がありました。
 日本に開国を迫るやり方も、軍艦に乗って来て開国を迫る正に砲艦外交でしたから、
 傲岸不遜な人物だったとの印象があります。
 アジア人に対しては、そうする事が効果的との認識があったのかも知れませんが。

 そのペリーが頭を下げた人物がいると言うのを最近知りました。
 多分2回目の1854年2月(嘉永7年1月)の頃の事だと思います。
 幕府は横浜に応対所を開設し、松代と小倉の両藩に、その警護を命じました。
 松代藩の陣屋の前をペリーが通過する際、
 軍議役として控えていた佐久間象山の前に差し掛かると、
 ペリーは軽く象山に目礼したと伝えられています。
 その現場に居合わせた幕臣の川路聖謨が、
 「ペリーが頭を下げたのは貴殿だけであろう。」と言ったとの事です。
 またペリーは、「あの人物の発する気に圧倒されたのだ」とつぶやいたとの話もあります。

 佐久間象山は、身長は5尺7・8寸(172〜175cm)で、
 筋骨たくましく大柄だったとの事です。
 また、顔は面長で色が白くて、額は広く、
 二重まぶたで眼光鋭く人を射るような威厳があったとも伝えられています。
 そのような容貌がペリーの目に大官と写ったのかも知れません。

 象山は松代藩士の、兵学者・朱子学者・思想家です。
 1851年(嘉永4年)に、江戸の木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えました。
 門人には、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、坂本龍馬、
 小林虎三郎など後の日本を担う人材が多数います。
 一方で、象山は自信過剰で傲慢なところがあり、敵も多かったと言われています。
 政治情勢が混沌としていた京都で、供も連れずに馬で歩いていたところを
 肥後の河上彦斎に斬殺されてしまいましたが、
 これも自信過剰の結果のような気がします。
 しかし、その自信過剰とも言うべき気概がペリーに頭を下げさせたのかも知れません。

コメント (2)
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