1567年(永禄10年)、かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長は、
西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻し、
城主斎藤龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡しました。
信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、
城と町の名を「岐阜」と改め、
この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになります。
これを以って、本格的に天下統一を目指すようになったとされて来ました。
しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、
室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、
地域を意味する場合は、
京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国、
現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えています。
「天下」は、古代中国では、皇帝が支配する全ての領地を指していました。
日本では、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文などによれば
5世紀後期ごろには、天皇を「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と
称していたことが判明していて、
その時期までに、倭国内で「中国世界とは異なる独自の天下」概念が
発生していたと考えられています。
7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入され、
律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握されていました。
「天下」が上記のように畿内・近国とその周辺の領域を指すようになるのは、
室町時代以降の事です。
戦国時代の史料によると、「天下」が日本全土を指す事は極めて少なく、
例えば、1583年(天正11年)のイエズス会の年報でも、
「天下」と日本は区別されています。
では、日本を豊臣秀吉はどう言っていたか気になりますが、
素直に「日本」、「日本六十余州」と表現しているようです。
いつ頃から、「天下」が日本全土を意味するようになったかも気になりますが、
1603年にイエズス会宣教師によって編纂された「日葡辞書」では、
「天下」は「君主の権または国家」とされています。
どうやら、日本全土を意味する「天下」は、
秀吉の後半から徐々に使われはじめ、
江戸時代初期には、日本全土を意味するものとなったようです。
西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻し、
城主斎藤龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡しました。
信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、
城と町の名を「岐阜」と改め、
この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになります。
これを以って、本格的に天下統一を目指すようになったとされて来ました。
しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、
室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、
地域を意味する場合は、
京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国、
現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えています。
「天下」は、古代中国では、皇帝が支配する全ての領地を指していました。
日本では、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文などによれば
5世紀後期ごろには、天皇を「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と
称していたことが判明していて、
その時期までに、倭国内で「中国世界とは異なる独自の天下」概念が
発生していたと考えられています。
7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入され、
律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握されていました。
「天下」が上記のように畿内・近国とその周辺の領域を指すようになるのは、
室町時代以降の事です。
戦国時代の史料によると、「天下」が日本全土を指す事は極めて少なく、
例えば、1583年(天正11年)のイエズス会の年報でも、
「天下」と日本は区別されています。
では、日本を豊臣秀吉はどう言っていたか気になりますが、
素直に「日本」、「日本六十余州」と表現しているようです。
いつ頃から、「天下」が日本全土を意味するようになったかも気になりますが、
1603年にイエズス会宣教師によって編纂された「日葡辞書」では、
「天下」は「君主の権または国家」とされています。
どうやら、日本全土を意味する「天下」は、
秀吉の後半から徐々に使われはじめ、
江戸時代初期には、日本全土を意味するものとなったようです。