天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

天下布武

2024-09-09 | Weblog
 1567年(永禄10年)、かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長は、
 西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻し、
 城主斎藤龍興は城を捨てて長良川を舟で下り、伊勢長島へ逃亡しました。
 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
 古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、
 城と町の名を「岐阜」と改め、
 この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになります。
 これを以って、本格的に天下統一を目指すようになったとされて来ました。

 しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、
 室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、
 地域を意味する場合は、
 京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国、
 現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えています。

 「天下」は、古代中国では、皇帝が支配する全ての領地を指していました。
 日本では、熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文などによれば
 5世紀後期ごろには、天皇を「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と
 称していたことが判明していて、
 その時期までに、倭国内で「中国世界とは異なる独自の天下」概念が
 発生していたと考えられています。
 7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入され、
 律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握されていました。
 「天下」が上記のように畿内・近国とその周辺の領域を指すようになるのは、
 室町時代以降の事です。
 戦国時代の史料によると、「天下」が日本全土を指す事は極めて少なく、
 例えば、1583年(天正11年)のイエズス会の年報でも、
 「天下」と日本は区別されています。

 では、日本を豊臣秀吉はどう言っていたか気になりますが、
 素直に「日本」、「日本六十余州」と表現しているようです。
 いつ頃から、「天下」が日本全土を意味するようになったかも気になりますが、
 1603年にイエズス会宣教師によって編纂された「日葡辞書」では、
 「天下」は「君主の権または国家」とされています。
 どうやら、日本全土を意味する「天下」は、
 秀吉の後半から徐々に使われはじめ、
 江戸時代初期には、日本全土を意味するものとなったようです。

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唐風の名前

2024-08-26 | Weblog
 古代の日本人の名前は、3文字とか4文字が結構ありました。
 例えば坂上田村麻呂とか犬上御田鍬などですね。
 これを唐風の2文字または1文字に改めさせた人がいます。
 菅原清公(きよきみ/きよとも)と言う、平安時代初期の公卿であった人で、
 菅原道真の祖父にあたる人です。

 清公は若い頃から経書と史書を学び、804年(延暦23年)、
 最澄らと共に唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂と共に皇帝・徳宗に謁見します。
 帰国後は、地方官を務めますが、その後帰京すると、
 左京亮・大学頭・主殿頭・左右少弁・式部少輔と京官を歴任し、
 819年(弘仁10年)正五位下・文章博士、
 821年(弘仁12年)従四位下・式部大輔と
 嵯峨天皇の下、順調に昇進しました。
 この間の818年(弘仁9年)には詔により、
 朝廷における儀式や衣服が唐風に改められました。
 また、五位以上の位記が中国風に改められ、
 諸宮殿・院堂門閣に新たな扁額が製作されましたが、
 全てに清公が関与したとの事です

 名前の付け方を唐風に改めたのも、こうした流れの一環だったのでしょう。
 男子の場合、
 「菅原道真」の「道真」や「藤原基経」の「基経」といった二文字訓読みか
 「源融(みなもと の とおる)」の「融」や「源信(みなもとの・まこと)」の「信」など
 一文字訓読みという形式にしたばかりでなく、
 女性の名前の「○子」という形式にすることは彼の建言によって導入されたものです。
 現代でも、3文字の名前の人は少ないですが、
 菅原清公の建言によるものなのでしょう。
 また、最近は少なくなったかも知れませんが〇子の女子の名前も、
 この時に始まったもののようです。

 名前をはじめ、積極的に唐風の文化の導入を図った清公でしたが、
 孫の菅原道真は遣唐使の廃止を献策しました。
 これにより、
 国風文化と呼ばれる日本独自の文化が形成されるようになりました。

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トルデシリャス条約

2024-08-08 | Weblog
 1492年、スペイン女王イザベルの支援を受けたコロンブスは、
 インド(実際はアメリカ大陸の西インド諸島)に到達しました。
 このことは、先進航海王国だったポルトガルには、穏やかでありませんでした。
 そこで紛争を危惧したイザベルは、
 スペイン出身の教皇アレクサンデル6世に仲介を要請します。
 教皇もこれを受けて大教書を発し裁定を行います。
 その内容は、大西洋の真ん中、西アフリカのセネガル沖に浮かぶ
 ベルデ岬諸島の西100レグア(約540km)の海上において
 子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、
 西側がスペインに属することが定める『インテル・チェテラ』を布告しました。

 航海熱が高まっていた時代、
 当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くありませんでした。
 そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、
 さらに西に270レグア進んで、370レグア(約2000km)の子午線を境界線とする
 トルデシリャス条約を締結した訳です。
 スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができました。
 ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年に
 ペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられました。

 これで当面の問題は解決しましたが、
 この条約には、地球の裏側についての規制がありません。
 この条約に基づき、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマ、ダルブゲルケ等々が輩出し、
 東方はるか東インディアスに向け進出しましたし、
 スペインもバルボア、ピサロなど名代の探検家たちを続々送り出します。

 やがて、マジェラン、ドレイクと相次ぐ世界周航が成功すると、
 トルデシリャス条約の滑稽な正体を暴露してしまいます。

 この条約はアジアにも適用されると考えられていましたが、
 経度の厳密な測定が困難だったこの時代には
 アジアにはどのように適用されるのかよくわからず、
 再度の論争が起こることになります。
 特に両国は当時の貴重品であった香辛料の一大産地だった
 東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって熾烈な争いを繰り広げます。
 こうしてアジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、
 新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」です。
 サラゴサ条約はモルッカ諸島の東297.5レグアを通る子午線を第二の境界とします。
 この子午線はニューギニア島中央部を通っています。

 トルデシリャス条約にしてもサラゴサ条約にしても、
 現地の住民には何も知らされていません。
 全く勝手な話です。
 また、フランス、イギリス、オランダといった国々は
 この条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となり、
 その後の世界史の動きとなっていきます。

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世界最古の名前のある人

2024-07-23 | Weblog
 クシムと言う人がいました。
 現在確認できる名前が存在する世界最古の人間とされています。
 人間に名を付けるといった文化がいつ頃始まったのか分かりませんが、
 現在分かっている中で、
 名前の付いた人間としては、このクシムが最古とされています。
 このクシムについては、諸説がありますが、
 古代BC 3400年~BC3000年位に生存したシュメール人だったと考えられています。
 古代メソポタミア文明の18枚の粘土板から確認され、
 取引を管理していた人物、会計士と推測されています。
 性別は不明ですが、多分男性だったと考えられています。

 シュメールには、シュメール王名表と呼ばれる王の名前を記した粘土板があります。
 王名表はウル第3王朝時代(BC2112年~BC2004年)に
 成立したと考えられています。
 この王名表の第1番目には、エリドゥ王アルリムと言う王が書かれていますが、
 その在位は、28800年間に及ぶとされていて、史実とは考えられません。
 王名表には100人を超える王の名前が記されていますが、
 近年の考古学上の発見によって実在が確認された
 王名表中の最古の年代の人物はキシュ王エンメバラゲシであり、
 彼の名はギルガメシュ叙事詩にも登場しています。
 エンメバラゲシは、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代の
 キシュ第1王朝の伝説的な王です。
 実際の彼の在位は紀元前2800年頃であったと推定されています。
 従って、クシムの方が古い訳です。

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菅江真澄と三内丸山遺跡

2024-07-07 | Weblog
 先日、青森県の三内丸山遺跡に行きました。
 その資料館に、菅江真澄が描いた土器と似ている縄文式土器の展示がありました。
 それを見て、初めて三内丸山遺跡と菅江真澄の関係を知りました。

 菅江真澄は、江戸時代後期の旅行家で本草学者です。
 三河国の生まれですが、1783年(天明3年)郷里を旅立ち、
 信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅しています。
 多くの紀行文や素描本を綴っています。
 東北地方に行くと、各地で菅江真澄の名を見ますが、
 三内丸山遺跡で見るとは思いませんでした。

 三内丸山遺跡は江戸時代からその存在が知られていました。
 文献上最初に遺跡の存在が出て来るのは、「永禄日記」です。
 この本は、浪岡城主北畠氏の後裔、山崎氏の家記で、
 「山崎記」或いは単に「記録」などと題されて二百年にわたり
 代々書き伝えられていましたが、損傷が多くなり、
 1763年(宝暦10年)に、山崎立朴によって整理・編纂一書としたものです。
 書かれている内容は、物価、天候、天変地異から政治まで、多方面に亘っています。
 この日記の元和9年(1623年)1月2日に。
 当地で数多くの土偶と思われる遺物が発見された事が記録されています。

 菅江真澄が初めて三内丸山遺跡を訪れたのは、
 寛政8年(1796年)4月14日の事で、
 当時の三内は周辺でも聞こえる桜の名所だった事から、花見に出掛けました。
 この年に著した『栖家能山』の中で、三内の地を訪れ、
 「此村の古堰の崩れより、縄形、布形の古き瓦、
  あるいは甕の破れたらんやうな形をなせるものを、掘り得しを見き。
  おもふに、人の顔、仮面なとのかたちせしものあり、
  はた頸鎧(みかへのよろい)に似たるものあり、
  卒堵浜蒼杜に近き三内の村は古名寒苗の里也。」と記録し、
 土器の口縁部や土偶の胴部のスケッチを残しています。
 また、1798(寛政10年)年に著した『追柯呂能通度(つがろのつと)』では、
 「寒苗の里より、みかべのよろひなすもの、あるいははにわなすもの…」と
 花牧(黒石市花巻)で「おなじさまなるものほりいでし」として、
 三内と花巻出土の両者を対比しています。

 その後、本格的な調査は、新しい県営野球場を建設する事前調査として
 1992年から行われました。
 その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、
 1994年には直径約1mの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられました。
 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、
 遺跡の保存を決定しました。
 
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昔語り

2024-06-13 | Weblog
 明治時代の洋画家黒田清輝の作品に「昔語り」がありました。
 ありましたと書きましたのは、
 太平洋戦争の戦災によって焼失してしまったからです。
 しかし、下絵などが残っているため、その作品の概要は分かります。
 いつだったか忘れましたが、東京国立博物館でこの下絵を観て、
 黒田の他の作品とは違った趣きがあり、
 ないものねだりのではありますが、観てみたいと思いました。

 黒田が、「昔語り」の着想をえたのは
 帰国直後の京都旅行(1893年秋)のことでした。
 清水寺附近を散策していて高倉天皇陵のほとりで清閑寺に立ちより、
 寺の僧が語った小督悲恋の物語を聞いたとき、
 黒田は現実から離脱するような不思議な感動におそわれたとの事です。
 当時の文部大臣西園寺公望の斡旋で住友家との契約がなり、
 翌年から制作がはじめられました。
 全身、部分図、裸体まで入念なデッサンが試みられ、
 さらに油彩による習作が描かれて完成作品がつくられていきました。
 制作が完全に終ったのは2年後の1898年のことでした。

 この絵が描かれたのが日光であった事を、
 昨日、栃木県立美術館で開催されている、
 「高橋由一から黒田清輝へ ―明治洋画壇の世代交代劇―」で知りました。
 1898年(明治31年)、33歳の黒田は4月に東京美術学校の教授になります。
 8月には、日光に来て、五百城文哉の紹介で興雲律院に滞在し、
 「昔語り」を完成させています。
 そして、10月白馬會第三回展に「昔語り」等19点を出品しています。
 この黒田清輝が描く姿を小杉放菴が見たとの話がありました。
 当時17歳だった小杉放菴は、
 2年前から五百城文哉の内弟子になっていましたので、
 何ら不思議な事ではありません。
 小杉放菴は、この頃この頃、五百城文哉に無断で上京し、
 白馬会の研究所に通いますが、2日行っただけで止め、
 日光に戻って、五百城文哉に謝罪しています。
 やがて、五百城文哉の許可を得て上京、
 小山正太郎の門下生になっています。
 黒田の描く姿に、若き小杉放菴が何か感じたのかも知れません。

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鷹見泉石像

2024-05-28 | Weblog
 ここのところ古河藩家老の鷹見泉石のエピソードを書いて来ました。
 鷹見泉石と言えば、一番有名なのは、その肖像画だと思っています。
 参考までに画像を貼っておきます。

 描いたのは、泉石と交流のあった渡辺崋山です。
 西洋の陰影法を用いて色面の濃淡で顔の立体感を作りつつ、
 髪の毛一本一本や細かく短い線を重ねた眉毛、膨らみを感じさせる唇など、
 随所に崋山の鋭い観察眼にもとづく写実的な描写が光っている傑作であり、
 国宝に指定されています。
 因みに、明治以降の絵画で国宝になっているものがないので、
 絵画部門では、最も新しい国宝になっています。

 鷹見泉石が大塩平八郎を捕縛した話は前回書きました。
 天保8年(1837年)2月19日に決起した大塩平八郎は、
 40日ほど行方をくらましていたが、3月27日に自決しました。
 幕府の元役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、
 幕府や大名から庶民に至るまで、世間に大きな衝撃を与えました。
 乱の首謀者逮捕という重責を果たした鷹見泉石は
 翌4月、報告のため江戸に向かった土井利位に随行し、参府します。
 泉石は、江戸で多忙を極めた利位に代わり、
 土井家の菩提寺である浅草の誓願寺へ代参します。
 そして、その装束のまま渡辺崋山のもとに立ち寄ります。
 浅葱色の素襖に烏帽子を被った正装で、
 腰には利位から拝領したとされる小さ刀を指しています。

 鷹見泉石像は、このとき崋山がその正装の勇姿を写しとり、
 その後、本画を完成させて泉石の元に届けられたものであると言われています。
 鷹見泉石像の款記は
 「天保鶏年槐夏望日(とりどしかいかぼうじつ)写 崋山渡邊登」とあります。
 天保8年4月15日に渡辺崋山が写したということです。
 すでに画家としての力量を評価されていた崋山に、
 泉石が乱鎮定の象徴として肖像画制作を依頼、
 完成した画像を前に自らの功績を物語る構想があったのでは、
 との推論を述べる研究者もいるとの事です。

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大塩平八郎の捕縛

2024-05-08 | Weblog
 大塩平八郎はご承知の通り、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力で、
 大塩平八郎の乱を起こした事で有名です。
 天保の飢饉のために疲弊した市民を救うため、
 天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起しますが、
 同心の門人数人の密告によって蜂起当日に鎮圧されました。
 大塩は戦場から離れた後、河内国を経て大和国に逃亡しますが、
 数日後、再び大坂に舞い戻って
 下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏していました。
 しかし、これが発覚し、1837年5月1日(天保8年3月27日)、役人に囲まれる中、
 養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。
 大塩平八郎には生存伝説がある事を以前書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/s/%E5%A4%A7%E5%A1%A9

 大塩平八郎の潜伏が発覚したのは、
 この店に奉公していた17歳の女が帰省した際、
 その家では毎朝飯を入れた飯櫃に茶碗を添えて棚下に置く習慣があり、
 翌朝も空になったお櫃に飯を入れて出していると話した事が発端です。
 この情報を元に、大塩平八郎の捕縛に向かったのが、
 当時大阪城代だった土井利位の家老鷹見泉石です。
 この時の状況が、鷹見泉石の書いた日記に下記のように詳しく書かれています。

 3月26日、この通報を受けた泉石は、迅速に情報の裏付けを行い、
 捕方への指示を行うと共に、
 懇意にしていた大坂町奉行所与力内山彦次郎への根回しを行い、
 翌日の捕縛を決定しました。
 商家の路地口が開き、大塩が顔を出すと、
 室内での捕方を想定し長さを半分に仕立てていた樫の召し捕り棒で打ち合います。
 捕方の包囲を見て大塩平八郎は室内に引っ込み雨戸を締め切りにしました。
 「中斎先生ともいわれるもの、卑怯千万、出て勝負せい」との呼びかけに、
 大塩は「鉄砲、鉄砲」と答えますが、「鉄砲之なき事はとく知れて有る」とし、
 続いて、「大塩平八郎といわれ候もの、尋常に出てこい」との言葉に、
 「今出る、今出る」と応答します。
 養子格之助を突き殺した上、火薬を取り出し火をかけようとする気配があったので、
 雨戸を打ち破って突入したところ、
 大塩は、喉へ三度ばかり突き立てた脇差しを投げつけ火薬に着火したとの事です。

 先日行った、古河市の歴史博物館には、
 この捕縛の様子が詳しく展示され、上記の樫の召し捕り棒が展示されていました。
 
 
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新訳和蘭国全図

2024-04-22 | Weblog
 先日、茨城県古河市に行きました。
 古河市には、古河藩の家老鷹見泉石の旧宅が残っているとの事で、
 それを見るのが主目的でした。
 鷹見泉石については、以前書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/c2fc02b0fefc78e18e7c054e8c43b538

 その鷹見泉石の旧宅の前に古河歴史博物館があります。
 鷹見泉石関係の資料などが沢山展示されています。
 そこで、「新訳和蘭国全図」との地図を見ました。
 嘉永3年(1850年)正月、鷹見泉石が出版したもので、
 一枚物にまとめて版木で刷った立派なものです。
 その図は、都府大街(都市の大通り)、市街、城塞、大邑(大都市)、
 邑里(村落)の地名表記に加えて、
 国州境、道路、宿駅の位置に至るまで明らかにしたオランダおよびベルギー地図で、
 日蘭交流二百五十年を記念して出版されたものでした。
 泉石は慶長5年(1600年)、オランダ船リーフデ号が
 豊後の佐志生に漂着した時に日蘭の出会いが始まる、と考えていたようです。

 鷹見泉石は、その頃の最高水準の洋学者の一人で、
 ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いています。
 地図に興味があったようで、多くの地図を残しています。
 その中には、伊能忠敬が作成した地図の東半分を、
 自宅に持ち帰り、僅か7日で、自ら精密に筆写したと言われています。
 伊能忠敬の地図は、幕府の機密資料でしたが、
 何らかの方法で借り出せたのだと思います。

 また、天保10年(1839年)、主君土井利位が本丸老中の時、
 オランダ大通詞の中山作三郎が江戸へ来ます。
 その時に持参した品に 「ハントアトラス」 という世界地図帳があることを知り、
 それを見せてもらいに通詞の定宿へ出かけます。
 これが3月7日のことでした。
 泉石は、この地図帳が大変気に入り、
 10日に、再び中山を訪ね、それを借り出します。
 その前日には、縮一反を届けさせた上での訪問でした。
 借りた翌日には、中山に白魚目刺を届けています。
 中山が長崎に帰る前日の17日に、
 数々の贈り物を、泉石は息子又蔵に届けさせるとともに、
 地図帳の買い取りを交渉させています。
 この結果、16両で買い取る事が出来ました。
 その次第が日記に書かれているとの事です。

 「新訳和蘭国全図」は、
 1816年刊行のWeygand 図(Nieuwe kaart van het Koninkrijk der Nederlanden) と
 極めて一致しており、
 Weygand 図のオランダ地名と地形の忠実な描写であることから、
 これを原図にして『泉石図』は作成されたとみられています。
 20年近く経過した後、家老職を辞して隠居生活になってから、出版したのでしょう、

 この地図の画像や詳しい内容等については下記で見る事が出来ますので、
 興味のある方はご覧ください。
 http://www.aobane.com/books/1048

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トマス・ペイン

2024-03-28 | Weblog
 トマス・ペインは、1737年1月29日に生まれたイギリス人です。
 アメリカに渡り、政治活動家、政治理論家、革命思想家として活躍しました。
 13歳から家業のコルセット作りの職人としての修行をしますが、
 16歳の頃に船乗りになるため家出をし、
 その後船員・コルセット製造・収税吏・教師と職を転々とします。
 1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを執筆し、
 文人のオリヴァー・ゴールドスミスと知り合います。
 1774年6月にロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介され、
 アメリカに移住し、月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任となります。
 1776年1月、フィラデルフィアで政治パンフレット『コモン・センス』を出版します。
 民主的平和論を説き植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、
 アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説きました。
 これが人気を博し、15万部売れたと言われています。

 独立宣言発布直後にペンシルベニア連隊に入隊し、
 ワシントンに紹介されて2年間その下で働き、
 『危機』(Crisis)と呼ばれる一連の小冊子や論文記事を出版し続けました。
 1780年3月にペンシルベニア州議会が可決した奴隷廃止法案の前文を書き、
 1784年には、独立に対する貢献により、
 ニューヨーク州よりニューロッシェルの農園を贈られています。
 その後1787年にフランスに渡り、
 更にイギリスに戻って、1791年と翌年にかけて
 『人間の権利』を出版し、1793年までイギリスで200万部売れたとされています。
 『人間の権利』第2部で土地貴族を攻撃し
 世襲君主制への敵意を表明したためイギリス政府に追放されたため、
 フランスに戻り、1791年10月にはフランスの市民権を与えられ
 国民公会によって新憲法の草案作成委員会に加えられます。
 憲法草案の前文をペインとコンドルセが書いたといわれています。
 1793年1月15日に国民公会でルイ16世の処刑に反対する演説を行います。
 12月28日にジロンド党との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕され、
 駐フランス公使ジェームズ・モンローの助力により翌年11月4日に釈放されます。
 12月8日に再び国民公会に迎えられ、
 翌年1月3日にフランス公教育委員会により顕彰されています。
 1802年に再びアメリカに渡り、ジョン・アダムズをはじめとする連邦党と対立し、
 奴隷反対を説いたため、アメリカではほとんどの友人を失い、
 1809年6月8日、不遇のうちにニューヨークで没します。

 彼の遺体は無神論者との噂がたたって教会での埋葬を拒まれて、
 ロングアイランドの共同墓地に埋められました。
 1819年、イギリスのジャーナリストで愛国者のウィリアム・コベットが
 故国に改葬しようとして強引にペインの遺骨を持ち帰ります。
 ところが、イギリスでも埋葬が許されず、
 コベットの生きている間はその家に置かれたままでしたが、
 彼の死とともに行方知らずとなったとの事です。

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