天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ポチョムキンの村々

2009-08-26 | Weblog
 ドイツ語に「potemkinsche dorfer(oはウムラウトです。)」と言う
 成句があります。
 拙宅のドイツ語辞書にも載っていました。
 直訳すると、ポチョムキンの村々と言う事になりますが、
 本意は欺瞞・みせかけと言う意味になります。
 このポチョムキンと言う名で、
 エイゼンシュタインの映画「戦艦ポチョムキン」を
 思い出す方もいるかと思いますが、ポチョムキンは人名です。

 本名は、グレゴリ・アレクサンドロヴィッチ・ポチョムキンです。
 彼は、18世紀のロシアの軍人であり、政治家だった人物です。
 しかし、彼を有名にしたのは、
 当時のロシアの女帝、エカテリーナ2世の5人目の愛人だった事です。
 彼は、1739年ベラルーシの近くの小貴族の息子として生まれ、
 軍人として頭角を現した頃、エカテリーナ2世と巡り会います。
 彼が35才、エカテリーナ2世が45才の時でした。
 エカテリーナの回想録には、ポチョムキンに宛てた手紙が残されており、
 その中で、彼女の愛人は噂ほどではなく、4人だったと告白しています。
 二人の蜜月時代、国政は二人の共同統治の形で運営されていました。
 その後、ポチョムキンは軍司令官としてトルコを破り、
 クリミアを割譲させ、また黒海艦隊を創設するなど、大きな功績を残しました。

 1787年春、57歳になったエカテリーナ2世は
 サンクト・ペテルブルクからクリミアまでの大視察旅行を行います。
 その時、新総督であったポチョムキンが、
 女帝の行程に急造のパリボテの家を建て、書割のような村を作って、
 女帝の機嫌を取ったと言うのが、
 この「ポチョムキンの村々」と言う言葉の語源です。

 この話を広めたのが、当時のドイツ・ザクセン選挙候国駐ロ外交官だった
 ヘルビッヒなる人物である事は分かっているのですが、
 それと同時に、エカテリーナ2世の様々な噂を広めたようで、
 どうも眉唾もののようです。
 下ネタ好きなのは洋の東西を問わぬ人間の性ですから、
 あっと言う間に彼女の良からぬ噂が広まってしまい、
 それが彼女の正当な評価の妨げになっているようです。
 フランスの国王ルイ14世は「太陽王」と呼ばれ、
 様々な業績を上げましたが、彼も多くの愛人がいました。
 しかし、その事がルイ14世の評価には影響していません。
 男性優位の歴史観を排して、エカテリーナ2世を正当に評価するべきだと、
 最近読んだ「女帝のロシア」で著者の小野理子さんが言っていますが、
 正論だと思います。
 エカテリーナ2世は、啓蒙専制君主として、様々な善政を敷いたようで、
 もっと評価されてしかるべき人物のようです。
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二本松城

2009-08-15 | Weblog
 二本松城は、福島県の二本松市にある城で、別名霞が城とも呼ばれています。
 奥州街道沿いに位置する名城として有名な城でした。
 この城に戒石銘碑と呼ばれる石があります。

 爾ノ俸 爾ノ禄ハ民ノ膏ナリ 民ノ脂ナリ
 下民ハ虐ゲ易ク 上天ハ欺キ難シ

 と記されています。
 これは、藩の儒者、岩井田 昨非(いわいだ さくひ)が起草した、
 藩士を戒める言葉で、石に刻まれて、藩庁の入り口に置かれていたもので、
 現在も残っています。

 当時の二本松藩は、五代藩主丹羽高寛が藩政改革が進まず苦慮していました。
 そこで、登用されたのが、岩井田 昨非でした。
 昨非は、元禄12年下野国芳賀郡(現栃木県)に生まれ、
 幕府儒官の桂山彩巌に師事し、儒学を極めました。
 二本松藩への仕官も、この桂山の推薦によるものです。
 昨非は藩主・家老の後ろ楯により、重臣・藩士らの反対を押し切り、
 文武両道の義務化等の教育制度をはじめとして、
 軍制・士制・刑律・民政などの重要施策を次々と改革していきました。
 特に、刑律では耳ぞぎ・指一つ切り・両足大指切り・焼きごてなどの
 残虐な刑罰を禁止し、民治の面では藩公外遊の際には、
 先触れなどの煩雑な制度を廃止して、
 農民の作業の妨げとなるのを防ぎました。

 寛延2年(1749)は凶作の年でした。
 ちょうどこの年、昨非の進言で藩政改革と綱紀粛正の指針として、
 藩士を戒める目的で「戒石銘」が藩主の命により刻まれました。
 各村では年貢米の減免を訴えている状況下、
 一修験僧が戒石銘の解釈を
 「下民は欺き易く、虐げても民の膏脂をしぼり、もってなんじらの俸祿とせよ」
 と誤って伝えました。
 そのため、農民の間に憎悪の感情が広がり、
 加えて平常、昨非に反感を抱いていた者達の扇動もあって、
 農民集団による一揆にまで発展しました。
 昨非は、自ら一揆鎮圧に向かいました。
 そして、静かに真の意味を説き聞かせた結果、
 暴徒は両手をつき頭を垂れ、
 中には感激のあまり涙にむせぶ者もいたといいます。

 誤解を解き、一揆は解決しましたが、
 反昨非派からの批判はこの時とばかりに日一日と高まりました。
 さすがの昨非も病と称して出仕遠慮の意志を固め、
 ついに宝暦3年(1753)辞職しました。
 自分の戒めの言葉を、曲解されて混乱が起き、
 それが辞職の原因となるわけです。
 何か、明治初年の血税事件なども思い浮かべられますが、
 歴史の皮肉とも言うべきものかも知れません。
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大関増裕の2

2009-08-07 | Weblog
 前回、若くして異例の出世をしながら、謎の死を遂げた、
 下野の国の黒羽藩主大関増裕の事を書きました。
 彼の様子の分かる狂歌が3首ほどありますので、
 今回はそれを紹介したいと思います。

 外様にて 奉行なすの(那須野)は 珍しし 横綱を張る 肥後の大関

 黒羽は、栃木県では、那須野ケ原の一角にあります。
 また、大関増裕は肥後守に任じられていました。
 前回も書きましたが、外様大名としては
 陸軍奉行、海軍奉行に任じられるのは珍しかった訳ですね。

 大関と また取組んだ 麟太郎 今度の相撲は きっと勝安房

 麟太郎は、勝海舟の事です。
 当時安房守に任じていました。
 講武所砲術師範を勤めていましたが、
 その時の上司が、講武所奉行を勤めていた増裕で、
 勝が軍艦奉行になった時の上司の海軍奉行が増裕だったので、
 2回上司と部下になった訳です。
 創設間もない幕府海軍を、この二人が動かしたので、
 江戸庶民は期待したのだと思います。
 海舟は、増裕のことを「大関肥後公は頗る気概あり」と評しています。

 夫婦して 江戸町々を 乗りあるき 異国の真似する 馬鹿の大関

 増裕は、養子となって、前の藩主の妻待子と結婚しました。
 待子は再婚だった訳ですが、とても二人は仲が良かったようで、
 二人で江戸の町を馬で乗り歩いていたようです。
 女性の乗馬がとても珍しかった当時の江戸庶民は驚いたのだと思います。
 増裕は、江戸城まで乗馬したまま登城したことでも有名でした。
 当時、幕府官僚で、乗馬のままで登城を許されたのは、
 増裕と海軍総裁を勤めた稲葉正巳だけでした。
 幼少の頃から洋学を修めた増裕は、
 異国趣味でも目立った存在だったようです。
コメント (2)
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