天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

昔語り

2024-06-13 | Weblog
 明治時代の洋画家黒田清輝の作品に「昔語り」がありました。
 ありましたと書きましたのは、
 太平洋戦争の戦災によって焼失してしまったからです。
 しかし、下絵などが残っているため、その作品の概要は分かります。
 いつだったか忘れましたが、東京国立博物館でこの下絵を観て、
 黒田の他の作品とは違った趣きがあり、
 ないものねだりのではありますが、観てみたいと思いました。

 黒田が、「昔語り」の着想をえたのは
 帰国直後の京都旅行(1893年秋)のことでした。
 清水寺附近を散策していて高倉天皇陵のほとりで清閑寺に立ちより、
 寺の僧が語った小督悲恋の物語を聞いたとき、
 黒田は現実から離脱するような不思議な感動におそわれたとの事です。
 当時の文部大臣西園寺公望の斡旋で住友家との契約がなり、
 翌年から制作がはじめられました。
 全身、部分図、裸体まで入念なデッサンが試みられ、
 さらに油彩による習作が描かれて完成作品がつくられていきました。
 制作が完全に終ったのは2年後の1898年のことでした。

 この絵が描かれたのが日光であった事を、
 昨日、栃木県立美術館で開催されている、
 「高橋由一から黒田清輝へ ―明治洋画壇の世代交代劇―」で知りました。
 1898年(明治31年)、33歳の黒田は4月に東京美術学校の教授になります。
 8月には、日光に来て、五百城文哉の紹介で興雲律院に滞在し、
 「昔語り」を完成させています。
 そして、10月白馬會第三回展に「昔語り」等19点を出品しています。
 この黒田清輝が描く姿を小杉放菴が見たとの話がありました。
 当時17歳だった小杉放菴は、
 2年前から五百城文哉の内弟子になっていましたので、
 何ら不思議な事ではありません。
 小杉放菴は、この頃この頃、五百城文哉に無断で上京し、
 白馬会の研究所に通いますが、2日行っただけで止め、
 日光に戻って、五百城文哉に謝罪しています。
 やがて、五百城文哉の許可を得て上京、
 小山正太郎の門下生になっています。
 黒田の描く姿に、若き小杉放菴が何か感じたのかも知れません。

コメント
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