天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

打ち首になった大名

2017-02-20 | Weblog
 江戸時代の刑法は身分によって大きく分かれていました。
 武士の身分の者に適用された死刑は「斬刑」で、
 一般庶民の死罪と同じ打ち首ですが、
 庶民の死体は刀の試し切りなどにされるのに対し、
 武士はありませんでした。
 しかし、最も大きな違いは、武士には切腹があった事です。
 切腹は江戸時代の刑法典に
 正式に規定されたものではありませんが、
 武士の名誉に配慮した形で、
 幕府や主君から賜わる恩典と一般的に見なされていました。
 有名な赤穂浪士に対し幕府が下した判決は切腹で、
 浪士達は非常に喜んだと伝えられています。
 もちろん武士で斬刑に処せられた者はいましたが、
 大名となると、幕府の役務中に刃傷を起こした内藤忠勝や、
 江戸城中で刃傷に及んだ浅野内匠頭でさえも、
 それぞれ切腹でした。

 しかし、江戸幕府260余年でただ1人、
 打ち首になった大名がいました。
 それは、肥前島原4万石の藩主松倉勝家です。
 松倉勝家は、初代島原藩主重政の嫡男として、
 1597年(慶長2年)に生まれます。
 重政と共に島原城とその城下町の新築、
 参勤交代の費用など種々の口実を設け、
 また独自に検地を実施して
 実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、
 領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課しました。

 1630年(寛永7年)に重政が急逝した後を受けて
 藩主となってからは、
 父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめます。
 1634年(寛永11年)は悪天候と旱魃による凶作でしたが、
 勝家は容赦せず重税を取立てます。
 米や農作物の徴収だけでなく、
 人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して
 厳格に取り立てたことが多くの記録に残っているとの事です。

 勝家は年貢を納められない農民や、
 村の責任者である庄屋から、妻や娘を人質に取るようになり、
 島原の乱の記録を残した
 長崎のポルトガル人ドアルテ・コレアは、
 人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、
 もがきながら焼死する姿を
 「蓑踊り」と呼んでいたという記録を残しています。
 1637年(寛永14年)、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は
 身重のまま人質にとられ、
 冷たい水牢に裸で入れられてしまいます。
 村民は庄屋宅に集まり年貢を納める方法を話し合いましたが、
 納める事が出来ず、
 庄屋の妻は6日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命します。
 たまりかねた領民は蜂起し、
 代官所を襲撃して代官を殺害しますが、
 これが島原の乱の始まりです。

 乱の鎮圧後、勝家は肥前唐津藩主寺沢堅高と共に
 反乱惹起の責任を問われ、
 勝家は改易、所領を没収され、
 美作津山藩主森長継に預けられます。
 勝家は悪政を布いたことを否定し、
 キリシタンによる反乱を主張し続けますが、
 その後松倉家の邸宅から
 折檻された農民の遺体が発見されると容疑は定まり、
 1638年(寛永15年)、
 幕府は正式に松倉を江戸に召喚して評定を重ねた結果、
 死罪と決して
 7月19日、森家の江戸屋敷で斬首に処せられました。
 その遺骸は松倉家の家臣に引き取られ、
 芝の金地院に葬られました。

 大名が切腹さえも許されず
 一介の罪人として斬首刑に処せられたことは、
 大反乱を引き起こす原因を作った勝家の失政を
 幕府側が極めて重大な罪と見なしていたことを
 示しているのでしょう。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満州唱歌・・・

2017-02-07 | Weblog
 童謡の「ペチカ」は、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の名曲ですが、
 白秋はどこの街を念頭に置いて作詞されたのかと思って調べていて、
 満州唱歌を知りました。
 ちなみに、ペチカは北欧生まれの暖房方式ですが、ロシアを経由し
 1880年頃に開拓使が北海道に導入したもののようです。

 1922年(大正11年)、それまで南満州鉄道附属地と関東州で
 別個に教育事業を担い、教科書や副読本を発行していた
 南満州鉄道と関東庁が共同出資し、
 教科書発行事業を一本化するため、
 南満州教育会教科書編集部が設立されました。

 当時の満州では
 本土と同じ国定の教科書を用いた教育が行われていましたが、
 編集部は将来の満州を支える人材を育成するべく、
 子供たちが満州に親しみを覚えることのできる教材を用いて
 教育を行おうとしたようです。
 唱歌集についても、
 満州の風土は
 文部省唱歌に歌われている日本の風土とかけ離れているため、
 満州の風土を反映させた歌を掲載したものを制作することにしました。
 「満州唱歌集」はこうして作られました。
 1924年(大正13年)に
 初の唱歌集『満州唱歌集 尋常科第一・二学年用』が発行され、
 その後、尋常科第五・六学年用まで順次発行されました。
 これには、編集部が作った歌や一般公募の歌のほか、
 北原白秋・野口雨情・島木赤彦・巌谷小波・山田耕筰・信時潔など、
 当時著名だった歌人・詩人・作曲家の作品が多く収録されていました。

 こうして出来た満州唱歌ですが、
 必ずしも満州の風土・風物が反映されたものではないとの批判が出て、
 1932年(昭和7年)に大幅な改訂がなされ、
 批判の強かった著名作家による作品の多くが削除され、
 かわりに園山民平・村岡昊・島田英雄・石森延男ら編集部員の手による、
 満州の風土が強く反映された歌が多く掲載されました。
 それらの歌にはロバ、やなぎのわた、高粱、高足踊り、
 馬車(マーチョ)、粉雪、杏の花、山ざし売り、
 満州に逃れてきた白系ロシア人のパン売りといった
 満州になじみの深い風物や、
 当時の満州の子供たちが盛んに行ったスケート遊び
 毎年旧暦の4月中旬に行われた娘々祭などの歌が入りました。
 なお、この改定で削除された「ペチカ」は本土の教科書に掲載され、
 その後の日本において広く親しまれるようになります。

 1937年(昭和12年)、南満州鉄道は南満州鉄道附属地における行政権を
 1932年に成立した満州国へ移譲しました。
 これにより南満州鉄道附属地であった地域の日本人子弟の教育は
 日本大使館教務部が担うこととなり、
 それまで行われていた裁量の大きい教育は終わります。
 南満州教育会教科書編集部は
 日本大使館教務部と関東局が合同で経営することになり、
 名称は「在満日本教育会教科書編集部」に変更されます。
 この新体制の下、1940年(昭和15年)に、
 満州唱歌の2回目の大改訂が行われ、
 教材名は「満州小学唱歌集」と改められました。
 この改訂で、従来の「満州唱歌集」に掲載されていた
 満州の自然や風土を歌った歌がいくつか削除され、
 かわりに「ふじの山」、「もみじ」など9曲の文部省歌が掲載され、
 さらに、戦争色の強い歌が掲載されるようになり、
 満州の唱歌集はその独自色を失い、
 本土のものと大きく変わらなくなりました。

 1942年(昭和17年)に行われた大幅改訂では
 題名が『ウタノホン』に変更され、
 題名から「満州」という言葉が消えるとともに、
 1940年の大改訂で失われた満州の独自性はさらに後退し、
 6割以上が文部省唱歌で占められるようになりました。

 1945年(昭和20年)8月、
 第二次世界大戦終結直前にソ連の進行を受け、
 満州国は崩壊しました。
 戦後、「ペチカ」や「待ちぼうけ」など一部の作品を除き、
 満州唱歌が日本の教科書に掲載されることはありませんでした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする