フランスのパリに、アンヴァリッド(廃兵院)と呼ばれる歴史的建造物があります。
1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、
1674年に最初の傷病兵たちが入りました。
また、付属の建物として、1706年礼拝堂が建築されています。
オルレアン朝(1830-1848年)時代に、ルイ・フィリップ国王により、
ドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルトの柩が置かれています。
また、一部はフランス軍事博物館として公開されていますが、
その中庭に、長州藩毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。
この大砲には、次のように刻まれています。
「十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春 於江都葛飾別墅鋳之」
嘉永7年(1854年)に葛飾別墅で鋳造された18ポンド砲と記されています。
長州藩が江戸葛飾に抱屋敷を持ったのは、1790年(寛政2年)の事です。
「葛飾別墅」などと呼ばれていました。
嘉永6年(1853年)6月3日のペリー来航に動揺した幕府は、
諸藩に江戸湾の警備を命じます。
長州藩の江戸屋敷には、火砲3門と和銃100余挺で武装した500余人に藩兵がいたので、
7日に幕府の命が届くとその日の内に大森海岸の警備に当たりました。
更に幕府は11月14日、長州藩に相州(神奈川県)の防備を正式に任せます。
そこで長州藩は、葛飾別墅の中に砂村鋳造所を設け、大砲鋳造に乗り出します。
幕府の許可が下りたのは安政元年(1854年)1月15日でした。
長州萩から鋳物師の郡司右平次が呼び寄せられ、
洋学者の佐久間象山の指導を受けながら、
砲身約3mの18ポンド砲36門が鋳造されました。
これらは、外敵からの備えとして、
江戸湾の入り口である三浦半島の砲台に据えられました。
長州藩の相州防備は、安政5年(1868年)6月21日まで続きました。
孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、
文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束しました。
幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていませんでした。
しかし、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、
航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。
元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた
イギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定し、
フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、
都合艦船17隻で連合艦隊を編成しました。
同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて、
馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、
各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊しました。
三浦半島の大砲は下関に運ばれ、これらの攘夷戦で使用されました。
長州藩が敗れた後、4か国は70門の大砲を戦利品として接収し、8門を海中に捨て、
残りをイギリス26門、フランス14門、オランダ13門、アメリカ1門を
それぞれの祖国に持ち帰りました。
アンヴァリッドに残る大砲は、この時の大砲で記念に残されたものと考えられます。
3門残されていますが、この内の天保15年(1844年)に鋳造された1門は、
1984年(昭和59年)に、下関市立長府博物館に貸与され、展示されているとの事です。
1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、
1674年に最初の傷病兵たちが入りました。
また、付属の建物として、1706年礼拝堂が建築されています。
オルレアン朝(1830-1848年)時代に、ルイ・フィリップ国王により、
ドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルトの柩が置かれています。
また、一部はフランス軍事博物館として公開されていますが、
その中庭に、長州藩毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。
この大砲には、次のように刻まれています。
「十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春 於江都葛飾別墅鋳之」
嘉永7年(1854年)に葛飾別墅で鋳造された18ポンド砲と記されています。
長州藩が江戸葛飾に抱屋敷を持ったのは、1790年(寛政2年)の事です。
「葛飾別墅」などと呼ばれていました。
嘉永6年(1853年)6月3日のペリー来航に動揺した幕府は、
諸藩に江戸湾の警備を命じます。
長州藩の江戸屋敷には、火砲3門と和銃100余挺で武装した500余人に藩兵がいたので、
7日に幕府の命が届くとその日の内に大森海岸の警備に当たりました。
更に幕府は11月14日、長州藩に相州(神奈川県)の防備を正式に任せます。
そこで長州藩は、葛飾別墅の中に砂村鋳造所を設け、大砲鋳造に乗り出します。
幕府の許可が下りたのは安政元年(1854年)1月15日でした。
長州萩から鋳物師の郡司右平次が呼び寄せられ、
洋学者の佐久間象山の指導を受けながら、
砲身約3mの18ポンド砲36門が鋳造されました。
これらは、外敵からの備えとして、
江戸湾の入り口である三浦半島の砲台に据えられました。
長州藩の相州防備は、安政5年(1868年)6月21日まで続きました。
孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、
文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束しました。
幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていませんでした。
しかし、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、
航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。
元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた
イギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定し、
フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、
都合艦船17隻で連合艦隊を編成しました。
同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて、
馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、
各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊しました。
三浦半島の大砲は下関に運ばれ、これらの攘夷戦で使用されました。
長州藩が敗れた後、4か国は70門の大砲を戦利品として接収し、8門を海中に捨て、
残りをイギリス26門、フランス14門、オランダ13門、アメリカ1門を
それぞれの祖国に持ち帰りました。
アンヴァリッドに残る大砲は、この時の大砲で記念に残されたものと考えられます。
3門残されていますが、この内の天保15年(1844年)に鋳造された1門は、
1984年(昭和59年)に、下関市立長府博物館に貸与され、展示されているとの事です。