天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

長州藩の大砲

2021-01-17 | Weblog
 フランスのパリに、アンヴァリッド(廃兵院)と呼ばれる歴史的建造物があります。
 1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、
 1674年に最初の傷病兵たちが入りました。
 また、付属の建物として、1706年礼拝堂が建築されています。
 オルレアン朝(1830-1848年)時代に、ルイ・フィリップ国王により、
 ドーム教会に地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルトの柩が置かれています。
 また、一部はフランス軍事博物館として公開されていますが、
 その中庭に、長州藩毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。
 この大砲には、次のように刻まれています。
 「十八封度礟 嘉永七歳次甲寅季春 於江都葛飾別墅鋳之」
 嘉永7年(1854年)に葛飾別墅で鋳造された18ポンド砲と記されています。

 長州藩が江戸葛飾に抱屋敷を持ったのは、1790年(寛政2年)の事です。
 「葛飾別墅」などと呼ばれていました。
 嘉永6年(1853年)6月3日のペリー来航に動揺した幕府は、
 諸藩に江戸湾の警備を命じます。
 長州藩の江戸屋敷には、火砲3門と和銃100余挺で武装した500余人に藩兵がいたので、
 7日に幕府の命が届くとその日の内に大森海岸の警備に当たりました。
 更に幕府は11月14日、長州藩に相州(神奈川県)の防備を正式に任せます。
 そこで長州藩は、葛飾別墅の中に砂村鋳造所を設け、大砲鋳造に乗り出します。
 幕府の許可が下りたのは安政元年(1854年)1月15日でした。
 長州萩から鋳物師の郡司右平次が呼び寄せられ、
 洋学者の佐久間象山の指導を受けながら、
 砲身約3mの18ポンド砲36門が鋳造されました。
 これらは、外敵からの備えとして、
 江戸湾の入り口である三浦半島の砲台に据えられました。
 長州藩の相州防備は、安政5年(1868年)6月21日まで続きました。

 孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、
 文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束しました。
 幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていませんでした。
 しかし、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、
 航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。
 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた
 イギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定し、
 フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、
 都合艦船17隻で連合艦隊を編成しました。
 同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて、
 馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、
 各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊しました。
 三浦半島の大砲は下関に運ばれ、これらの攘夷戦で使用されました。
 長州藩が敗れた後、4か国は70門の大砲を戦利品として接収し、8門を海中に捨て、
 残りをイギリス26門、フランス14門、オランダ13門、アメリカ1門を
 それぞれの祖国に持ち帰りました。

 アンヴァリッドに残る大砲は、この時の大砲で記念に残されたものと考えられます。
 3門残されていますが、この内の天保15年(1844年)に鋳造された1門は、
 1984年(昭和59年)に、下関市立長府博物館に貸与され、展示されているとの事です。

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国立天文台水沢

2021-01-04 | Weblog
 岩手県奥州市に国立天文台水沢があります。
 現在の名称は、水沢VLBI観測所になっています。
 VLBIとは、Very Long Baseline Interferometry(超長基線電波干渉法)の略で、
 天体からの電波を利用してアンテナの位置を測る技術です。
 もともと電波天文学の分野から発展した技術で、
 その精度の高さから測量などにも応用されています。

 水沢天文台は、1899 年に臨時緯度観測所として設置されました。
 なぜ臨時緯度観測所が水沢に設置されたのかについては、次のような経緯によります。
 当時、地球の極軸が地球自体に対して動く現象(極運動)の解明が、
 天文学の最先端の研究テーマのひとつでした。
 1895年にベルリンで開催された第11 回萬国測地学協会総会で、
 極運動の決定精度を格段に上げるため、国際観測網を同一緯度上に展開し、
 全ての観測所が同じ星を観測し、
 星の位置誤差に起因する誤差を取り除くことにしました。
 観測所の選定作業の結果、北緯39度8分上にある世界の6か所
 アメリカ大陸のゲイザーズバーグ、シンシナティとユカイア、
 地中海の島カルロフォルテ、中央アジアのチャルジュイ、
 そして、日本の水沢に観測所を置くことが決められました。

 諸外国は、日本の観測技術に懐疑的でしたが、
 物理学者の田中館愛橘らの主張により、水沢局は日本人が観測することになりました。
 日本では、江戸時代の1801 年に伊能忠敬が蝦夷地の測量を開始しましたが、
 そうした蓄積などにより、当時の日本の天測の技術は高いものでした。
 そして、東京帝国大学星学科を卒業した木村榮は、
 当時麻布にあった東京天文台で1895年に緯度変化観測を行い、
 田中館愛橘に測地測量などを学び、臨時緯度観測所の所長となりました。
 観測開始から約2年後の1902年、木村は緯度変化と極運動の関係式に
 さらに一つ項(後にZ 項と呼ばれます)を加えると
 観測結果をうまく説明できることを発見しました。

 その後、中央局であったドイツは第一次世界大戦で大敗した事もあり、
 様々な検討の末、中央局は1922 年~1934年の間、水沢が担うことになり、
 木村が中央局長になりました。
 同時に、それまで臨時緯度観測所であったものが緯度観測所と改名され、
 恒久的な位置づけになり、新しく大きな庁舎(現在の奥州宇宙遊学館)も建設されます。

 1921年(大正10年)から1926年(大正15年)まで、
 花巻農学校(現・岩手県立花巻農業高等学校)の教師をしていた宮沢賢治が、
 たびたび水沢緯度観測所を訪れており、数々の名著の構想を育んだとされています。
 童話『風野又三郎』(『風の又三郎』の先駆作品の一つ)には、
 水沢緯度観測所の一文が書かれ、テニスに興じる「木村博士」が登場します。
 また、『銀河鉄道の夜』の題材のヒントになったとされています。

 1921年に竣工した本館は、
 当時としては珍しい、望楼を持つ木造2階建てのドイツ風建築で、
 1967年まで使用されていました。
 国立天文台は老朽化に伴い、取り壊しを決定しましたが、
 その時期にたまたま宮沢賢治学会の一行が旧本館の見学に訪れ、
 解体撤去の報を聞き、保存運動が起こりました。
 協議を経て2007年に国から市への建物の譲渡が決定しました。
 その後建物の耐震改修工事を経て、「奥州宇宙遊学館」として利用されています。

コメント (2)
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