源義経と女性と言うと、静御前が有名ですが、
静御前はあくまでも妾であり、正室は他にいました。
それが郷御前です。
武蔵国の豪族、河越重頼の娘で、
母は源頼朝の乳母である比企尼の次女の河越尼です。
本名は不明ですが、伝承で郷御前と呼ばれていて、
故郷である河越(川越市)では、
京へ嫁いだ姫である事から京姫と呼ばれています。
元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り、
頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁ぎます。
この結婚は、義経の無断任官により頼朝の怒りを買い、
平氏追討を外された直後でしたが、婚姻自体は以前から決まっていたようです。
河越重頼と兄弟の河越重房は義経の初陣である源義仲追討に従い、
後白河法皇の御所にも義経と共に参院しており、
叔父の師岡重経が義経の検非違使任官の式に随行するなど、
郷の上洛以前から河越一族が外戚として義経の身辺に仕えていたようです。
郷が嫁いで5ヶ月後の文治元年(1185年)2月16日、
義経は屋島の戦いに出陣し、続く壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして、
4月24日に都に凱旋します。
しかし5月、頼朝は先の無断任官と自専の振る舞いにより、義経を勘当します。
義経は弁明のため、壇ノ浦での捕虜を伴い鎌倉へ向かったが腰越で留め置かれ、
頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされます。
この頃、義経は平時忠の娘である蕨姫を室に迎えますが、
引き続き郷は正室としての地位を保ちます。
義経が都に戻って4ヶ月後の同年10月9日、
頼朝が土佐坊昌俊を差し向け義経討伐を計りますが、
義経はこれを返り討つと、10月13日に後白河法皇の御所に参院し、
叔父の源行家と共に頼朝追討の院宣を要請し、
18日、頼朝追討の宣旨が下ります。
29日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣すると、
11月3日、義経は郎党ら200騎を率いて京都を退去します。
11月12日、河越重頼が義経の縁戚であるとして領地を没収され、
後に重頼・重房ともに誅殺されています。
この頃の郷の動向は不明ですが、
義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している事から、
京都在中に懐妊し、都の近辺に身を隠して出産したものと推測されています。
文治3年(1187年)2月10日、義経は陸奥国の藤原秀衡を頼り、
郷と子らを伴い奥州に赴きます。
一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたとの事です。
文治5年(1189年)閏4月30日、
頼朝の命を受けた藤原泰衡が、義経が暮らす衣川館を襲撃したため、
義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害しました。
平泉町金鶏山の麓にある千手堂境内に、義経妻子の墓があります。
以上、『吾妻鏡』に記載されているとの事です。
静御前はあくまでも妾であり、正室は他にいました。
それが郷御前です。
武蔵国の豪族、河越重頼の娘で、
母は源頼朝の乳母である比企尼の次女の河越尼です。
本名は不明ですが、伝承で郷御前と呼ばれていて、
故郷である河越(川越市)では、
京へ嫁いだ姫である事から京姫と呼ばれています。
元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り、
頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁ぎます。
この結婚は、義経の無断任官により頼朝の怒りを買い、
平氏追討を外された直後でしたが、婚姻自体は以前から決まっていたようです。
河越重頼と兄弟の河越重房は義経の初陣である源義仲追討に従い、
後白河法皇の御所にも義経と共に参院しており、
叔父の師岡重経が義経の検非違使任官の式に随行するなど、
郷の上洛以前から河越一族が外戚として義経の身辺に仕えていたようです。
郷が嫁いで5ヶ月後の文治元年(1185年)2月16日、
義経は屋島の戦いに出陣し、続く壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして、
4月24日に都に凱旋します。
しかし5月、頼朝は先の無断任官と自専の振る舞いにより、義経を勘当します。
義経は弁明のため、壇ノ浦での捕虜を伴い鎌倉へ向かったが腰越で留め置かれ、
頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされます。
この頃、義経は平時忠の娘である蕨姫を室に迎えますが、
引き続き郷は正室としての地位を保ちます。
義経が都に戻って4ヶ月後の同年10月9日、
頼朝が土佐坊昌俊を差し向け義経討伐を計りますが、
義経はこれを返り討つと、10月13日に後白河法皇の御所に参院し、
叔父の源行家と共に頼朝追討の院宣を要請し、
18日、頼朝追討の宣旨が下ります。
29日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣すると、
11月3日、義経は郎党ら200騎を率いて京都を退去します。
11月12日、河越重頼が義経の縁戚であるとして領地を没収され、
後に重頼・重房ともに誅殺されています。
この頃の郷の動向は不明ですが、
義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している事から、
京都在中に懐妊し、都の近辺に身を隠して出産したものと推測されています。
文治3年(1187年)2月10日、義経は陸奥国の藤原秀衡を頼り、
郷と子らを伴い奥州に赴きます。
一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたとの事です。
文治5年(1189年)閏4月30日、
頼朝の命を受けた藤原泰衡が、義経が暮らす衣川館を襲撃したため、
義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害しました。
平泉町金鶏山の麓にある千手堂境内に、義経妻子の墓があります。
以上、『吾妻鏡』に記載されているとの事です。