天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

郷御前・・・

2021-07-24 | Weblog
 源義経と女性と言うと、静御前が有名ですが、
 静御前はあくまでも妾であり、正室は他にいました。
 それが郷御前です。
 武蔵国の豪族、河越重頼の娘で、
 母は源頼朝の乳母である比企尼の次女の河越尼です。
 本名は不明ですが、伝承で郷御前と呼ばれていて、
 故郷である河越(川越市)では、
 京へ嫁いだ姫である事から京姫と呼ばれています。

 元暦元年(1184年)9月14日、頼朝の命により河越重頼の娘が都に上り、
 頼朝の代官として在京していた義経の許に嫁ぎます。
 この結婚は、義経の無断任官により頼朝の怒りを買い、
 平氏追討を外された直後でしたが、婚姻自体は以前から決まっていたようです。
 河越重頼と兄弟の河越重房は義経の初陣である源義仲追討に従い、
 後白河法皇の御所にも義経と共に参院しており、
 叔父の師岡重経が義経の検非違使任官の式に随行するなど、
 郷の上洛以前から河越一族が外戚として義経の身辺に仕えていたようです。

 郷が嫁いで5ヶ月後の文治元年(1185年)2月16日、
 義経は屋島の戦いに出陣し、続く壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして、
 4月24日に都に凱旋します。
 しかし5月、頼朝は先の無断任官と自専の振る舞いにより、義経を勘当します。
 義経は弁明のため、壇ノ浦での捕虜を伴い鎌倉へ向かったが腰越で留め置かれ、
 頼朝との対面を願うも鎌倉入りさえも許されず、都へ戻る事を余儀なくされます。
 この頃、義経は平時忠の娘である蕨姫を室に迎えますが、
 引き続き郷は正室としての地位を保ちます。

 義経が都に戻って4ヶ月後の同年10月9日、
 頼朝が土佐坊昌俊を差し向け義経討伐を計りますが、
 義経はこれを返り討つと、10月13日に後白河法皇の御所に参院し、
 叔父の源行家と共に頼朝追討の院宣を要請し、
 18日、頼朝追討の宣旨が下ります。
 29日、頼朝が義経討伐のため鎌倉から都へ向けて出陣すると、
 11月3日、義経は郎党ら200騎を率いて京都を退去します。
 11月12日、河越重頼が義経の縁戚であるとして領地を没収され、
 後に重頼・重房ともに誅殺されています。

 この頃の郷の動向は不明ですが、
 義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している事から、
 京都在中に懐妊し、都の近辺に身を隠して出産したものと推測されています。
 文治3年(1187年)2月10日、義経は陸奥国の藤原秀衡を頼り、
 郷と子らを伴い奥州に赴きます。
 一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたとの事です。

 文治5年(1189年)閏4月30日、
 頼朝の命を受けた藤原泰衡が、義経が暮らす衣川館を襲撃したため、
 義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害しました。
 平泉町金鶏山の麓にある千手堂境内に、義経妻子の墓があります。

 以上、『吾妻鏡』に記載されているとの事です。

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足利学校の授業

2021-07-11 | Weblog
 足利学校は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、
 中世の高等教育機関です。
 創建については、諸説あり、
 平安時代の小野篁によって839年(承和6年)ごろに創設されたとする説、
 12世紀末に足利義兼によって設立されたという説、
 足利学校は上杉憲実が開設したものとの説もあります。

 いずれにしても、室町時代の前期には衰退していましたが、
 1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し、
 鎌倉円覚寺の僧快元を能化に招いたり、
 蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げ、中興の祖とも言われています。
 上杉憲実は1447年(文安4年)に
 足利荘及び足利学校に対して3か条の規定を定めています。
 この中で、足利学校で教えるべき学問は、
 三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定し、
 仏教の経典の事は叢林や寺院で学ぶべきであると述べていて、
 教員は禅僧などの僧侶でしたが、教育内容から仏教色を排しました。
 従って、教育の中心は儒学でしたが、
 快元が易学にも精通していたことから、
 易学を学ぶために足利学校を訪れる者が多く、
 また兵学、医学なども教えていました。
 戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、
 戦国武将に仕えるということがしばしばありましたし、
 田代三喜、曲直瀬道三などの名医たちも学んでいます。

 足利学校で、具体的にどのようにして授業を行っていたかについて、
 呉座勇一さんの『日本中世への招待』に載っていました。
 足利学校では、20人以下の少人数授業が中心だったようです。
 当時は印刷技術がなかったので、受講生に教科書を配る事が出来ません。
 そのため、受講生は授業を受ける前に教科書を写しておかなければなりません。
 講義では、講師が教科書を読みつつその解説を行います。
 受講生は講師が語った内容を
 教科書本文の行間や上下余白に口述筆記していました。

 享禄年間(1530年頃)に、火災で一時的に衰微した足利学校を
 北条氏政の保護を受けて再興した、第7代庠主の九華が受講生時代に使った
 『論語集解』の一部が国立国会図書館に残っていて、
 やはり本文の行間や上下に小さい字で書かれています。
 講義の中では、雑談などもあったようで、それも記されているとの事です。

 九華が庠主だった天文年間、
 読めない字や意味のわからない言葉などを紙に書いて松の枝に結んでおくと、
 翌日にはふり仮名や注釈がついていたことから、
 学徒ばかりでなく近所の人まで利用するようになり
 この松を「字降松(かなふり松)」と呼ぶようになったとの伝説があります。

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