天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

イギリス最初の女優

2018-01-24 | Weblog
 演劇の歴史はどこまで遡れるか分かりませんが、
 シェイクスピアが活躍した時代に
 盛んになった事は間違いありません。
 一般的にエリザベス朝演劇とも呼ばれています。
 しかし、この当時の演劇には女優がいませんでした。
 女役はすべて少年俳優が演じる事になっていました。
 1641年に清教徒革命が起こりますが、
 清教徒たちは演劇を嫌悪していました。
 女性の役を演じるために若い男性が女装するのを
 倒錯的とみなしたのもその理由の一つです。
 このため、1642年9月に全ての劇場を閉鎖してしまいました。

 そうした最中の1656年9月、
 突如として最初の女優が誕生する事になります。
 場所はロンドンの、正式な劇場ではありませんが、
 ラットランド・ハウスと呼ばれた、邸宅裏のホールでした。
 そして、当の女性はミセス・コールマンと言う名の、
 紳士の妻女で、全くの素人でした。
 出し物は、座主兼作者でフランス帰りの
 ウィリアム・タヴェナントとなる人物の自作、
 「ロードス島の攻略」でした。

 その夜、開演時間近くになると、
 華やかなルイ王朝風に着飾った上流紳士淑女が
 用心深く集まりました。
 清教徒軍兵士に見付かると大変ですから、
 慎重になるのも当然の事です。

 幕が上がると、舞台はロードス島の港、
 トルコ軍スレイマン大王の陣営、
 やがて武将の一人が、
 「見ろ、シチリアの名花、アイアンシー様だ!」と叫びます。
 すると、ヴェールに深く面を包んだ女性が、
 背景からスッと姿を現します。
 そしてヴェールの奥から、
 紛れもない女性の声が聞こえて来ました。
 これがイギリスの舞台から流れた最初の女優の声でした。

 後年彼女が語った回想談によると、
 素人の悲しさで、完全に上がりっぱなしで、台詞も覚えきれず、
 書き抜き片手の演技だったとの事です。
 しかしながら間もなく一件が発覚し、
 彼女は法令違反の罪で逮捕監禁され、
 重科料まで科されたとの事です。

 以上、淮陰生の「一月一話」に載っていた話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い恋

2018-01-07 | Weblog
 アレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイは、ロシアの女性革命家です。
 ソビエト政権樹立後は、
 1919年に政治家としてヨーロッパ最初の女性閣僚(人民委員)となった人です。
 また、世界最初の女性大使として、1923年駐ノルウェー大使に任命され、
 以後、メキシコ、スウェーデン大使や国際連盟代表部部員を歴任しています。
 数か国語に精通した雄弁家として人気を博し、
 多くの著作を発表して、ブルジョア的性道徳を徹底的に攻撃し、
 女性解放運動の理念と実践に足跡を残しています。
 「赤い恋」「三代の恋」「姉妹」からなる小説集『働き蜂(ばち)の恋』(1923)や、
 長編小説『偉大な恋』(1927)を通して、
 「性的欲望や恋愛の満足は、一杯の水を飲むようなものだ」として、
 性の自由を説く「水一杯理論」が、コロンタイズムとよばれて世界に広まりました。
 野上弥生子の『真知子』でも知られるように、
 日本でも昭和初期の左翼運動のなかで「赤い恋」が流行しました。

 1929年(昭和4年)に大ヒットした歌謡曲に『東京行進曲』があります。
 菊池寛の同名の小説を溝口健二監督により映画化され、
 その主題歌を佐藤千夜子が歌ったもので、
 作詞は西條八十、作曲は中山晋平でした。

  昔恋しい銀座の柳
  仇な年増を誰が知ろ
  ジヤヅで をどつてリキユルで更けて
  あけりや彼女のなみだあめ

  恋の丸ビルあの窓あたり
  泣いて文かく人もある
  ラツシユアワーに拾つたばらを
  せめてあの娘の思ひ出に

  広い東京恋故せまい
  いきな浅草忍び逢ひ
  あなた地下鉄私はバスよ
  恋のストツプまゝならぬ

  シネマ見ませうかお茶のみませうか
  いつそ小田急で逃げませうか
  変る新宿あの武蔵野の
  月もデパートの屋根に出る

 佐藤千夜子の歌がYouTubeにありましたので、宜しければお聴き下さい。
 https://www.youtube.com/watch?v=gY9u5FPyAis

 この歌詞の内、4番は書き替えられたもので、原作は下記の通りでした。

  長い髪してマルクス・ボーイ
  今日も抱へる「赤い恋」
  プロの新宿あの武蔵野の
  月もシネマの屋根に出る

 この歌詞の中に出て来る「赤い恋」はコロンタイの小説です。
 歌謡曲で歌われるほど有名だったのでしょうね。
 しかし、1929年は悪名高い治安維持法が成立した年でした。
 レコーディング当日に、ビクター・レコードの文芸部長から書き換えを依頼され、
 西條八十が即座に書き換えて、現在伝わる歌詞になりました。

 ロシアは風刺小咄の国です。
 コロンタイズムが喧伝されていた当時、次のような小咄が生まれました。

 女たちが集まり、男女の性的な平等も良いが、
 何としても不公正は女性の出産時におけるあの苦痛です。
 そこで彼女達は神様の許を訪れ、
 あの苦しみこそは父たる夫にも味合わせて欲しいと懇願しました。
 神様は、宜しい引き受けたと言ってくれました。
 皆、大喜びで帰って来ましたが、間もなく妙な事が起こり出しました。
 アパート住まいの妻たちが産気づくと、亭主はケロリとしているのに、
 隣家の旦那がウンウン苦しみ出すのです。
 同様の事があちこちで起こり、家庭争議が頻発しました。
 これには女たちも驚き、改めて神様にお願いし、
 元に戻してもらったという話です。
 小咄は、淮陰生の「一月一話」に載っていた話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする