天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

幸彦像

2018-03-16 | Weblog
 上の画像の絵をご覧になった方も多いと思います。
 青木繁が描いた「幸彦像」で、
 栃木県立美術館が所蔵しています。

 青木繁は、1882年(明治15年)7月13日、
 現在の福岡県久留米市荘島町で、
 旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれました。
 青木は1899年(明治32年)、16歳の時に
 中学明善校(現福岡県立明善高等学校)の
 学業を半ばで放棄して単身上京、
 画塾「不同舎」に入って主宰者の小山正太郎に師事しました。
 1900年(明治33年)、
 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、
 黒田清輝から指導を受けます。
 1904年(明治37年)夏、美術学校を卒業したばかりの青木は、
 坂本や不同舎の生徒で恋人でもあった福田たねらとともに
 千葉県南部の布良に滞在しました。
 代表作『海の幸』はこの時描かれたものです。

 福田たねは、1885年(明治19年)年1月、
 栃木県芳賀郡水橋村(現芳賀町)で、
 呉服屋の次女として生まれます。
 18歳で絵を学ぶために上京、不同舎に入門し、
 青木繁と出会いました。
 青木繁らと行った館山の写生旅行で、懐妊します。
 1905年(明治38年)年、青木と入籍しないまま、
 茨城県真壁郡伊讃村川島(現在の筑西市)の木賃宿で
 長男を出産します。
 この長男が幸彦です。
 戸籍上は、たねの父の子(たねの末弟)として届けられました。
 1907年(明治40年)、青木とたねは福田家の縁戚に滞在し、
 青木は『わだつみのいろこの宮』を描きますが、
 父の廉吾の危篤の知らせを聞いた青木は単身帰郷してしまい、
 たねとは離別します。
 たねは、1910年(明治43年)、
 別の男性と結婚し、多くの子どもに恵まれたとの事です。

 幸彦は、父母を知らずに、たねの実父に育てられました。
 東京の尾泉尺八研究所や琴古流の関口月童、水野呂童に師事し、
 室崎琴月の真島音楽院でピアノやバイオリンも学び、
 福田蘭童と号します。
 尺八奏者として知られる傍ら、作曲家としても活動します。
 日本放送協会のラジオ番組「新諸国物語・笛吹童子」の
 オープニングテーマ及び劇中曲を手がけるなど、
 ラジオ草創期においてその才能を発揮しました。
 また、料理や釣りにも長じた趣味人として知られ、
 開高健や志賀直哉など多くの文化人と交流がありました。
 さらに映画音楽も手がけましたが、
 1935年(昭和10年)、
 映画撮影の為にロケ地の伊豆大島の向かう途中の船上で
 出演女優の川崎弘子を強姦する事件を引き起こし、
 世間の批判を浴びました。
 松竹蒲田撮影所の所長であった城戸四郎に責任をとるように迫られ、
 妻と離婚し川崎と再婚しました。
 前妻との間には、長男英市がいましたが、
 彼は長じて、クレージーキャッツの石橋エータローになります。

 1962年(昭和37年)、
 館山市布良に青木繁《海の幸》記念碑が建立されましたが、
 その除幕式には、たねと蘭童が参列したとの事です。

 1974年(昭和49年)に県立美術館が開催した
 「青木繁・福田たねのロマン展」が契機となって、
 栃木県芳賀町東高橋の五行川のほとりに
 ロマンの碑が設置されました。
 ロマンの碑は、
 上部にパレットを持つ青木繁、その右に福田たね、
 下部に幸彦が浮き彫りされています。
 芳賀町では、町営温泉も「ロマンの湯」と名付けています。

コメント (2)
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