天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

万延元年遣米使節

2017-09-05 | Weblog
 日本人で初めて世界一周をした津太夫については以前書きました。
 http://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/2034289f4ca49bbb4c43ab6a726dcb14
 その次に世界一周したのは、万延元年遣米使節なのですが、
 余り知られていないようなので、書いて置きます。

 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に締結された日米和親条約に続き、
 1858年7月29日(安政5年6月19日)に日米修好通商条約が締結されました。
 批准書の交換はワシントンで行うとされたため、
 江戸幕府が派遣したのが、万延元年遣米使節です。
 正使および副使には、共に外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた
 新見正興と村垣範正が任命され、目付には小栗忠順が選ばれています。
 これら3人を正規の代表とする使節団77人は、
 アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米することになりました。
 また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、
 正使一行とは別に護衛を名目に派遣されたのが咸臨丸です。
 司令官を軍艦奉行の木村喜毅に命じ、
 軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者を多く乗船させ、
 通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選び、
 福澤諭吉が木村の従者として乗船しました。
 咸臨丸は、オランダで建造されましたが、江戸幕府が所有していた事もあり、
 使節一行よりもこちらの方が有名ですね。

 使節団一行は、1860年2月13日(安政7年1月22日)横浜港を出港し、
 途中ハワイのホノルルに寄港して、当時のハワイ国王カメハメハ4世に拝謁します。
 3月28日(旧暦3月8日)にサンフランシスコに到着しました。
 咸臨丸は、それよりも早く3月18日(旧暦2月27日)に到着しています。
 ポーハタン号の到着により咸臨丸の任務は完了しましたので、
 船体の損傷が酷く修理を行った上で、帰国しました。

 使節団はサンフランシスコからパナマを経て、5月15日(旧暦閏3月25日)に
 ワシントンに到着しました。
 5月17日に、ブキャナン大統領に謁見・批准書を渡しました。
 ワシントンには25日間滞在しましたが、
 その間にスミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を
 訪れています。
 ワシントン滞在中に複数回にわたり、小栗忠順が中心となって、
 金銀貨幣の交換比率の問題の交渉が行われています。

 その後、フィラデルフィアに到着し、
 造幣局を見学したほか、日米金貨の分析実験や金銀貨幣の交渉も引き続き行っています。
 6月16日(旧暦4月27日)に、ニューヨークに到着しました。
 ニューヨークではブロードウェイでパレードが行われ50万人もの人が集まり、
 空前と言われる大歓迎を受けています。
 ニューヨークには13日間滞在し、
 6月29日(旧暦5月12日)、ナイアガラ号で帰国の途につきました。
 ニューヨークを出発した一行は、北大西洋を横断して
 ポルトガル領カーボベルデ(現カーボベルデ共和国)の
 サン・ヴィセンテ島ポルトグランデ(現ミンデロ港)に至り、
 そこから南下してポルトガル領アンゴラ(現アンゴラ共和国)のルアンダを経由し、
 喜望峰を回ってインド洋に入りました。
 更に、オランダ領バタヴィア(現インドネシア共和国ジャカルタ)、
 英領香港を経由し、11月9日(旧暦9月27日)に品川沖に帰着、翌日下船しました。

 使節団は、世界一周した訳ですが、
 ナイアガラ号の整備の関係で出発が遅れた事もあり、
 さらに早く帰国したいとの一行の意向もあって、寄り道をせずに帰国したようです。

コメント (4)
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