天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

分別汚麻呂

2010-02-22 | Weblog
 何となく、ゴミ処理の標語のようですが、人の名前です。
 「わけべのけがれまろ」と読みますが、
 もちろん親がこのような名前を付けた訳ではありません。
 名前を付けたのは、道鏡とも称徳天皇とも言われています。
 付けられた人は、和気清麻呂です。

 称徳天皇は、聖武天皇と光明子の娘として生まれ、
 初めて天皇位に就いた時には孝謙天皇になりますが、
 その実権は、彼女の従兄弟である、
 藤原仲麻呂(恵美押勝との称号を与えられています。)と
 光明皇后が握っていました。
 そして、位を淳仁天皇に譲り孝謙上皇となる訳ですが、
 上皇の時に病気になり、その治療を道鏡が行ったため、
 彼と知り合い、やがて彼を重用するようになります。
 時に、上皇は44歳、道鏡は生年が明らかでないため、
 ハッキリとはしませんが、50歳位だったと思います。
 道鏡と上皇との関係は色々と俗説がまかり通っていますが、
 果たしてどうなのでしょうか?

 やがて、藤原仲麻呂が乱を起こし鎮圧されると、
 それに併せて上皇は淳仁天皇を廃帝に追い込み
 重祚して称徳天皇となります。
 道鏡も大臣禅師となりますが、
 世の動きに迎合する輩が出て、今の大分県にある宇佐八幡宮で、
 「道鏡を皇位に就ければ、天下太平となる」と言う
 神託が降りたとの報告が朝廷に上がります。
 道鏡を信頼していた称徳天皇は喜んだのだと思います。

 そして、更にその事実を
 確かなものとしようと思ったのかも知れません。
 天皇の側に仕えていた、法均尼(和気広虫)の弟
 和気清麻呂を宇佐に派遣します。
 宇佐から帰った清麻呂は、
 「我が国、開闢以来、君臣の分定まり、
 臣を以て君となすこと、未だ曽てなし、
 天つ日嗣は必ず皇諸を立つべく、
 無道の臣は、宜しく早く掃蕩すべし。」と述べます。

 これに激怒したのは、称徳天皇だったのだと思います。
 わざわざ自分の側近の弟を派遣したのに、
 全く逆の神託を持って帰ったのですから当然だと思います。
 そこで、和気清麻呂を分別汚麻呂と名前を変えさせた上で、
 大隅国(今の鹿児島県)に流してしまいます。
 姉の広虫も、狭虫(せまむし)と名前を変えさせて、
 備後(今の岡山県)に流してしまいます。

 先ほど、二人を流罪にしたのが、
 どちらか分からないと書きましたが、
 僕は、名前をわざわざ変えさせると言うような事からも、
 称徳天皇のような気がします。
 称徳天皇の死後、
 道鏡は下野薬師寺(今の栃木県にありました)の
 別当(長官)に任じられます。
 この措置は、左遷は左遷なのでしょうが、
 下野薬師寺は、当時日本国内に3箇所きりなかった戒壇院を有する、
 東国の仏教の中心とも言える寺院でした。
 今で言えば、総理大臣が
 国立大学の学長になったもののような気がします。
 
 和気清麻呂と広虫は、許されて都に戻り、
 清麻呂は平安京の建設などに携わります。
 名前が戻された事は、もちろんの事です。
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ある日の献立

2010-02-13 | Weblog
 朝  栗小豆飯3碗、佃煮
 間食 紅茶1杯半、菓子パン3個
 昼  栗飯の粥4碗、まぐろの刺身、葱の味噌和え、白瓜の漬物、梨1個、氷水1杯
 夕  小豆粥3碗、鰌鍋、昼の刺身の残り、和布、煮栗

 その翌日
 朝  ぬく飯2碗、佃煮、紅茶1杯、菓子パン1個
 昼  粥(芋入り)3碗、鰹の刺身、味噌汁、佃煮、梨2個、林檎1個
 間食 焼栗8・9個、ゆで栗3・4個、煎餅4・5枚、菓子パン6・7個
 夕  いも粥3碗、おこぜ豆腐の湯あげ、おこぜ膾、キャベツひたし物、
    梨2切、林檎1個

 凄い食欲だと思います。
 お碗の容量は少し違いがあるかも知れませんが・・・。
 少食と言われた事のない僕も、これだけ一日では食べられないような気がします。

 誰がこれだけ食べたのか気になると思いますが、正岡子規です。
 1902年(明治35年)の9月9日、10日の2日間の献立が上記の通りで、
 彼の日誌「仰臥漫録」に載っています。
 第一高等中学校本科に在学中の23歳の頃から喀血し、
 明治29年にはカリエスと診断され手術を受けますが、病状は良くなりません。
 その後も何度かの手術を受けましたが回復はせず、
 明治35年5月からは、ほとんど寝たきりの状態になり、
 この年の9月2日から、「仰臥漫録」を書き始めます。
 その最初の頃の食事が、前述の献立です。
 この時、子規の肺は左右とも、ほとんど空洞の状態だったと言われており、
 医師の目から見ると生存自体が奇跡的な事だったようです。

 翌明治36年、病状は益々募りますが、手記を書き続け、
 「病牀六尺」として出版されています。
 そして、9月18日、
 「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
 「をととひのへちまの水も取らざりき」
 「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
 の三句を詠んで意識を失い、9月19日に永眠します。享年36歳でした。

 最近の日本人は、米を食べなくなったと言われています。
 明治の頃は、病人でもこれだけ食べたのですから、
 健康な人はもっと食べたのかも知れません。
 あるいは、これだけの食事が、子規の奇跡的な生命力の糧であったのかも知れません。
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生首の写生

2010-02-03 | Weblog
 僕は、幕末から明治の初頭に活躍した絵師河鍋暁斎が大好きです。
 画家と呼んでも良いのですが、僕のイメージとしては絵師の方がピッタリしています。

 暁斎は、1831年(天保2年)、下総の古河に生まれます。
 幼名は、周三郎と言います。
 父親の喜右衛門は、古河の商家に生まれ、
 古河土井家の家臣、河鍋家の養子となり武士になりますが、
 周三郎の生まれた翌年、土井家を辞し、江戸に出て定火消同心甲斐家を継ぎます。
 周三郎は幼い頃から絵を描くのが好きで、
 喜右衛門は周三郎7歳の時に、歌川国芳に入門させますが、
 この国芳どうも品行が良くなかったようで、日ならずして辞めさせてしまいます。
 しかし、周三郎は国芳に可愛がられたようで、
 国芳からは写生の必要性を教わったようです。

 周三郎9歳の時に、大雨があり、神田川が溢れるほどの大水になりました。
 周三郎はこの様子を写生しようと、
 雨が小止みになるのを待って、写生帖を持って出かけました。
 川の様子を見ていると、足元に何かが流れ着きました。
 これを良く見てみると、男の生首でした。
 流石に、周三郎も驚いて、逃げ出そうとしましたが、
 これまで人形の首は何回か写生しているのに、
 本物の生首を写生した事がなく、やってみようと思い直しました。
 そして、その首を草の間に隠して、家に帰り風呂敷を持って帰って、
 この首を包んで家に持ち帰りました。
 この首を物置に隠しておいたのですが、下女が見付けてしまい、大騒ぎとなります。
 そこに周三郎が現れて、写生するために持ち帰った旨の言い訳をします。
 周囲の大人たちは、その豪胆さと熱意に感心してしまい、
 菰に包んで拾った場所に持って行き、その場で写生をさせます。
 写生が終わると、用意した般若心経に首を包んで、また川に流したと言う事です。

 9歳の子どもに、水に濡れた生首を持てるのか等の疑問もありますが、
 暁斎が明治になって書いた「暁斎画談」に載っている話だそうで、
 大野七三さんの「河鍋暁斎 逸話と生涯」で知った話です。
コメント (2)
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