何となく、ゴミ処理の標語のようですが、人の名前です。
「わけべのけがれまろ」と読みますが、
もちろん親がこのような名前を付けた訳ではありません。
名前を付けたのは、道鏡とも称徳天皇とも言われています。
付けられた人は、和気清麻呂です。
称徳天皇は、聖武天皇と光明子の娘として生まれ、
初めて天皇位に就いた時には孝謙天皇になりますが、
その実権は、彼女の従兄弟である、
藤原仲麻呂(恵美押勝との称号を与えられています。)と
光明皇后が握っていました。
そして、位を淳仁天皇に譲り孝謙上皇となる訳ですが、
上皇の時に病気になり、その治療を道鏡が行ったため、
彼と知り合い、やがて彼を重用するようになります。
時に、上皇は44歳、道鏡は生年が明らかでないため、
ハッキリとはしませんが、50歳位だったと思います。
道鏡と上皇との関係は色々と俗説がまかり通っていますが、
果たしてどうなのでしょうか?
やがて、藤原仲麻呂が乱を起こし鎮圧されると、
それに併せて上皇は淳仁天皇を廃帝に追い込み
重祚して称徳天皇となります。
道鏡も大臣禅師となりますが、
世の動きに迎合する輩が出て、今の大分県にある宇佐八幡宮で、
「道鏡を皇位に就ければ、天下太平となる」と言う
神託が降りたとの報告が朝廷に上がります。
道鏡を信頼していた称徳天皇は喜んだのだと思います。
そして、更にその事実を
確かなものとしようと思ったのかも知れません。
天皇の側に仕えていた、法均尼(和気広虫)の弟
和気清麻呂を宇佐に派遣します。
宇佐から帰った清麻呂は、
「我が国、開闢以来、君臣の分定まり、
臣を以て君となすこと、未だ曽てなし、
天つ日嗣は必ず皇諸を立つべく、
無道の臣は、宜しく早く掃蕩すべし。」と述べます。
これに激怒したのは、称徳天皇だったのだと思います。
わざわざ自分の側近の弟を派遣したのに、
全く逆の神託を持って帰ったのですから当然だと思います。
そこで、和気清麻呂を分別汚麻呂と名前を変えさせた上で、
大隅国(今の鹿児島県)に流してしまいます。
姉の広虫も、狭虫(せまむし)と名前を変えさせて、
備後(今の岡山県)に流してしまいます。
先ほど、二人を流罪にしたのが、
どちらか分からないと書きましたが、
僕は、名前をわざわざ変えさせると言うような事からも、
称徳天皇のような気がします。
称徳天皇の死後、
道鏡は下野薬師寺(今の栃木県にありました)の
別当(長官)に任じられます。
この措置は、左遷は左遷なのでしょうが、
下野薬師寺は、当時日本国内に3箇所きりなかった戒壇院を有する、
東国の仏教の中心とも言える寺院でした。
今で言えば、総理大臣が
国立大学の学長になったもののような気がします。
和気清麻呂と広虫は、許されて都に戻り、
清麻呂は平安京の建設などに携わります。
名前が戻された事は、もちろんの事です。
「わけべのけがれまろ」と読みますが、
もちろん親がこのような名前を付けた訳ではありません。
名前を付けたのは、道鏡とも称徳天皇とも言われています。
付けられた人は、和気清麻呂です。
称徳天皇は、聖武天皇と光明子の娘として生まれ、
初めて天皇位に就いた時には孝謙天皇になりますが、
その実権は、彼女の従兄弟である、
藤原仲麻呂(恵美押勝との称号を与えられています。)と
光明皇后が握っていました。
そして、位を淳仁天皇に譲り孝謙上皇となる訳ですが、
上皇の時に病気になり、その治療を道鏡が行ったため、
彼と知り合い、やがて彼を重用するようになります。
時に、上皇は44歳、道鏡は生年が明らかでないため、
ハッキリとはしませんが、50歳位だったと思います。
道鏡と上皇との関係は色々と俗説がまかり通っていますが、
果たしてどうなのでしょうか?
やがて、藤原仲麻呂が乱を起こし鎮圧されると、
それに併せて上皇は淳仁天皇を廃帝に追い込み
重祚して称徳天皇となります。
道鏡も大臣禅師となりますが、
世の動きに迎合する輩が出て、今の大分県にある宇佐八幡宮で、
「道鏡を皇位に就ければ、天下太平となる」と言う
神託が降りたとの報告が朝廷に上がります。
道鏡を信頼していた称徳天皇は喜んだのだと思います。
そして、更にその事実を
確かなものとしようと思ったのかも知れません。
天皇の側に仕えていた、法均尼(和気広虫)の弟
和気清麻呂を宇佐に派遣します。
宇佐から帰った清麻呂は、
「我が国、開闢以来、君臣の分定まり、
臣を以て君となすこと、未だ曽てなし、
天つ日嗣は必ず皇諸を立つべく、
無道の臣は、宜しく早く掃蕩すべし。」と述べます。
これに激怒したのは、称徳天皇だったのだと思います。
わざわざ自分の側近の弟を派遣したのに、
全く逆の神託を持って帰ったのですから当然だと思います。
そこで、和気清麻呂を分別汚麻呂と名前を変えさせた上で、
大隅国(今の鹿児島県)に流してしまいます。
姉の広虫も、狭虫(せまむし)と名前を変えさせて、
備後(今の岡山県)に流してしまいます。
先ほど、二人を流罪にしたのが、
どちらか分からないと書きましたが、
僕は、名前をわざわざ変えさせると言うような事からも、
称徳天皇のような気がします。
称徳天皇の死後、
道鏡は下野薬師寺(今の栃木県にありました)の
別当(長官)に任じられます。
この措置は、左遷は左遷なのでしょうが、
下野薬師寺は、当時日本国内に3箇所きりなかった戒壇院を有する、
東国の仏教の中心とも言える寺院でした。
今で言えば、総理大臣が
国立大学の学長になったもののような気がします。
和気清麻呂と広虫は、許されて都に戻り、
清麻呂は平安京の建設などに携わります。
名前が戻された事は、もちろんの事です。