天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

カエサルと月桂冠

2016-08-17 | Weblog
 ガイウス・ユリウス・カエサルは、
 共和制ローマ時代の政治家、軍人として有名です。
 そればかりでなく、
 文筆家としても優れていて多くの名言を残しています。

 シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」では、
 「天井にあっては唯一不動の北極星、
  数多人間の間にあって、厳として不可侵の地位にあるは唯一人、
  それがこのシーザーだ」との名台詞がありますが、
 彼の風格を伝えていると思います。
 その容貌について、スエトニウスの「ローマ皇帝列伝」には、
 色白で眼は鋭く、背が高く引き締まった体をした
 美丈夫であったと記されています。

 しかしながら、同書によると彼にも悩みがあったようです。
 それは、頭髪が薄かった事で、
 多くの人々の笑いものになったり、
 政敵から攻撃されていたようです。
 当人もかなり気にしていたようで、
 後頭部の乏しい髪を櫛で天頂から前に綺麗になでつけていました。
 さしずめ玉スダレのような感じだったのかも知れません。

 年代が分かりませんが、
 カエサルが内戦を終結させた業績を認めら
 いつ、どこでも月桂冠を被る特権を与えられました。
 この時は、彼は大変喜び、その後いつも使っていたようです。
 カエサルを描いた像や絵画では、
 月桂冠を着けて描かれているものがありますが、
 その方が彼の希望だったと思います。

コメント (3)
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朝寝坊夢之助

2016-08-02 | Weblog
 1899年(明治32年)の事です。
 朝寝坊夢之助と言う落語の前座がいました。
 朝寝坊むらくと言う落語家の弟子で、
 毎月師匠の持席の変るごとに、
 引幕を萌黄の大風呂敷に包んで
 背負って歩いていました。
 朝寝坊むらくは、
 江戸時代を起源とする落語家の名跡で、
 その師匠は6代目むらくでした。

 この朝寝坊夢之助は、
 入門後半年くらいした時、
 寄席の高座に出演しているところを、
 父親の使用人に見付かり、
 家に連れ戻されてしまったため、
 そこで廃業する事になりました。

 夢之助の父親は、
 当時、日本郵船の上海支店長を勤めていましたが、
 その前は、
 内務省、文部省などの役人だった人物です。

 夢之助は、
 1879年(明治12年) 12月3日に生まれました。
 1897年(明治30年)、
 高等師範学校附属尋常中学校
 (現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業しますが、
 第一高等学校の入試に失敗し、
 一時期上海に渡ります。
 帰国して、神田一ツ橋の
 高等商業学校附属外国語学校清語科に在籍していました。
 寄席に出ていた事もあったのでしょう、
 外国語学校は除籍になってしまいます。

 その後、巖谷小波の木曜会に入ったり、
 歌舞伎座の立作者福地桜痴に入門したりして、
 1903年(明治36年)、父の計らいでアメリカに渡り、
 その後フランスにも行きます。

 さて、この朝寝坊夢之助は
 誰だかお分かりになるでしょうか?

 本名、永井壮吉、
 号に金阜山人、断腸亭主人などを使った永井荷風です。
 父親の使用人に見付かって連れ戻されなければ、
 一流の噺家になっていたかも知れませんが、
 荷風の名作は生まれなかったかも知れません。
 人間の面白さを感じる話だと思っています。

コメント (2)
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