天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

灰屋紹益と吉野太夫

2009-09-28 | Weblog
 灰屋紹益は、本名佐野三郎重孝、通称を灰屋三郎兵衛と言い、
 剃髪して紹益と号しました。
 佐野家は、南北朝時代から紺を染めるための灰を扱う豪商で、
 元禄期の京都を代表する町衆の一家でした。
 紹益は、単なる商人に留まらず、
 和歌を烏丸光広に、俳諧を松永貞徳に、蹴鞠を飛鳥井雅章に、
 茶の湯を千道安に、書を本阿弥光悦と言うように、
 当時の一流の人物から学んだ知識人でもありました。
 また、井原西鶴の「好色一代男」の主人公世之介のモデルとも言われています。

 この、紹益の妻となったのが、
 当代きっての名妓と言われた、二代目吉野太夫です。
 吉野太夫は、大変利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はもちろん、
 管弦では琴、琵琶、笙をよくし、書、茶湯、立花、貝合わせ、
 囲碁、双六に至るまで諸芸はすべて達人の境にあり、
 その名声は遠く明国まで聞こえたそうです。

 「好色一代男」の中では、七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が吉野を見染め、
 せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身を嘆いていると、
 それを聞き知った吉野は不憫に思い、
 ひそかに呼び入れて一度だけ情を叶えてやると言う話が出て来ます。
 この話を聞き知った紹益は、その心意気に惚れて、吉野太夫を身請けします。
 この二人の幸せな期間は、長く続かず、
 吉野太夫は身請けされて12年ほどたった、38歳の時に亡くなります。
 紹益にとっては、身を引き裂かれるほどの悲しみだった事は間違いありません。

 都をば 花なき里に なしにけり 吉野は死出の 山にうつして
 と言う歌を詠んでいます。

 しかし、それよりも凄まじい話が残されています。
 紹益は、吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納め、
 そしてその遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、
 吉野を偲びながら全部飲んでしまったと言う話です。

 現在、京都の鷹が峰にある常照寺には、二人の墓があり、
 吉野太夫が寄進したと言われる門も残っているそうです。
 また、灰屋の屋敷のあった跡には、地蔵さんが祀られており、
 地元の人は「身請け地蔵」と呼んでいるとの事です。
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ダニエル・デフォー

2009-09-17 | Weblog
 ダニエル・デフォーは
 「ロビンソン・クルーソー漂流記」の作者として有名ですね。
 しかしながら、デフォーは単なる小説家ばかりでなく、
 波乱万丈の人生を送った人であり、
 スパイとして活動していたこともありました。

 1660年、ロンドンの肉屋の息子として生まれた彼は、
 様々な職業を転変とします。
 青年時代から政治に興味を持ち、
 1685年、ジェームズ2世に対する反乱罪に連座して、
 危うく処刑されそうになります。
 その後、ウィリアムス3世の革命軍に参加し、
 裕福な女性と結婚して、
 メリヤスの靴下屋を営みますが、放漫経営で破産します。

 逃亡生活中に、
 ウィリアムス3世を支持するパンフレットを作成して政府に迎えられ、
 職権を利用して陶器工場の経営を始め成功します。
 1702年、スチュアート朝最後のアン女王が即位すると、
 イギリス国教徒の残酷性を訴えるパンフレツトを出版し、
 議会の国教徒の怒りを買って3日問のさらし台の刑の後投獄されます。
 獄中において政治評論ばかりか獄中の泥棒や殺人犯のインタビュー、
 有名人のスキャンダル、幽霊話などを満載した新聞を発行し、
 現在の英国大衆新聞の原型をつくり、
 反政府派のジャーナリストとして名声を得ます。

 しかし、一方では自由を得るために
 政府高官に反政府派弾圧のスパイ組織結成を提案し、
 許されて出獄後、政府のためのスパイ組織網を組織しました。
 彼、自らもスコットランドに潜入し、
 イングランドとスコットランドの合併に貢献します。

 その後、変節の多い言動が
 政府からも反政府派からも疑われるようになり、
 政治活動とスパイ活動を断念して引退しました。
 そして、59歳の時に書き上げたのが、「ロビンソンクルーソー」で、
 ベストセラーになります。
 その後、同傾向の作品を多数出版し、巨額の富を得ますが、
 69歳の時突然失綜し、
 71歳の1731年、隠れ住む小屋でひっそりとその生涯を閉じました。

 デフォーは、何度も成功と失敗を繰り返し、
 更に政治的な立場も二転三転します。
 余り、尊敬できる人物ではなかったかも知れませんが、
 面白い人生であったことは間違いないと思います。
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カテリーナ・スフォルツァ伯爵夫人

2009-09-08 | Weblog
 カテリーナ・スフォルツァ伯爵夫人は、イタリアでも有名な女性です。
 1463年に、ミラノの統治者スフォルツァ家の庶子として生まれ、
 女性でありながら北イタリアの領主として、
 悪名高いチェーザレ・ボルジアの軍隊に最後まで抵抗した女性です。

 その当時のイタリアは血生臭い事件が多く、
 実父のミラノ公も兄も、彼女が少女時代に暗殺されましたし、
 最初の夫も、二番目の夫も家臣建ちの叛乱で凄惨な謀殺にあっています。
 3番目の夫が、ジョヴァンニ・デ・メディチで、
 その子どもが後の「黒旗隊のジョヴァンニ(1498-1526)」で、
 フィレンツェ公国初代大公コジモ1世(1519-74)の父親にあたります。

 カテリーナを有名にしたのが、
 教皇シクストゥス4世の甥っ子である最初の夫
 ジロラモ・リアーリオが謀殺された時の出来事です。
 叛乱を起こした敵は、彼女の夫の死体を逆さ吊りにして、
 更に子ども2人を人質にして、開城を迫りました。
 その時、彼女は城壁の上に立つと、やおらスカートをたくし上げて、
 「馬鹿め これさえあれば、子どもなどいくらでもできるのを知らないのか!」
 と叫んだのだそうです。
 当時彼女は24歳でしたから、若い女性が股間を曝して叫ぶのを見て、
 敵もオタオタしてしまいました。
 その内に、援軍が到着して、敵軍を追い払い、
 子どもも助かったと言う事です。

 1499年、彼女はチェザーレ・ボルジアとフランス軍を相手に、
 居城のフォルリ城に25日間籠城しますが、最後は降伏します。
 ボルジアは、彼女を自分のテントに連れ込んで
 放さなかったと言うような話もありますが・・・。
 彼女は、その後解放され、
 フィレンツェのメディチ家で余生を過ごし、1509年この世を去ります。
 彼女の孫、コジモ1世の血筋から、フランス王妃が出て、
 ヨーロッパ各国の王族にその血筋が広がって行きます。
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