天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

古川古松軒が見た宇都宮

2019-02-18 | Weblog
 先日、古川古松軒の「東遊雑記」を読みました。
 この本は、江戸時代の古川古松軒が著した、東北地方と北海道の旅行記です。
 民俗学者の宮本常一が、特に優れた旅行記として挙げた本の1冊です。

 古松軒は、1726年(享保11年)、
 備中国下道郡新本村(岡山県総社市新本)に生まれました。
 天明3年(1783年)3月末から9月にかけて、
 山陽、九州を巡り、「西遊雑記」を著しています。

 幕府巡見使の随員に採用され、奥羽地方及び松前を巡った際の記録が、「東遊雑記」です。
 天明8年(1787年)5月6日に江戸を出発し、奥州街道を北上して陸奥国に入り、
 出羽国を通って7月20日松前に到着、8月中旬まで滞在した後、
 陸奥国太平洋側を巡り、水戸街道経由で10月18日江戸に帰着しています。
 この時の巡検使の管轄区域が、陸奥・出羽・松前の3か国ですが、
 行程上宇都宮を通っています。
 宇都宮について、どのように書いているのか気になったので、
 写しておきました。

 巡検使の一行は、5月7日に古河を出発しています。

 古河より二十六町行きて下野国野木の駅、二里間々田休足、一里二十四町小山駅、
 この所より日光山への道あり、一里十一町芋栖の駅、二十九町小金井、一里半雀の宮、
 二里三町宇都宮城下御止宿、城主戸田侯(七万八千石)。
 小金井の辺より街道の左右に樹木繁りて、日影はいうに及ばず、
 雨も洩らぬように見えたり。
 檜・榎・松・杉の大木蒼々と茂り合いて、間あいだに田畑これあり、よき道なり。
 郷中富家なく、農業の道具も上方・中国筋に見なれぬもの多し。
 宇都宮の城下ながき町なり。
 四十八町。
 よき市中にはあらず。
 昔、東照宮会津御進発の節、将軍台廟この処まで御出陣、
 東照宮は小山の駅まで御発向ありし時、石田三成謀反の注進ありしゆえ、
 これより軍をかえし給いし所なり。
 また本多上野助正純悪逆の事跡は、ここに記さず。
 土人の物語に、城中にその時巧みし堀の跡残れりといえり。
 郭内広く本丸は凹にて、土人穴城と称す。
 二の丸・三の丸は凸なり。
 本丸には櫓も館もなしといえり。
 町家草葺き多くてあしし。
 この辺は石の和らかなるありて、それを瓦の如く削りなして、堂塔の屋根に葺くなり。
 他国にはなき石なり。
 当宿に植木氏何某とて将軍家へ御目見する家あり、
 これは東照宮の御時代より時計蝋燭というものを献上する家なり。
 蝋燭に時刻を割り付けて風なき所に灯し置けば、何本灯しても時の狂いなしといえり、
 これまた他所にかつてなく蝋燭なり。
 また正一位勲一等慈間明神と称する古宮あり、開基よりおよそ千年に及ぶといえり。
 俵藤太秀郷の奉納の甲冑ありといえり。
 また太平記に記せる宇都宮公綱出生の地はこの所なりといえり。
 新古今集に、
 「ただ頼め標茅ケ原のさしもぐさ 我世の中にあらんかぎりは」と詠める
 標茅ケ原もこの所にありと案内者いえり。
 近江国にも同名あり、いずれが是なるや定めがたし。

 一行は、この後宇都宮を発って、白沢、氏家、喜連川と北上して白河に至っています。

 述べられている地名の内、1か所だけ芋栖が分かりませんでした。
 多分小山市近郊なのだと思います。
 将軍台廟とは、徳川秀忠の事です。
 時計蝋燭の事も分かりませんでした。
 これは、もう少し調べてみたいと思います。

 慈間明神とは二荒山神社の事だと思いますが、
 そのような古称があったのは確認出来ませんでした。
 ただ、信州諏訪地方の伝説上の人物、甲賀三郎が宇都宮に来て、
 後に神となって、示現太郎大明神と言うとの伝説がありました。

 「ただ頼め標茅ケ原のさしもぐさ 我世の中にあらんかぎりは」の歌は、
 謡曲船弁慶に出て来る歌で、
 静御前が義経のもとを去って行く時に歌います。
 この歌は、清水寺の観音の歌とされていて。
 観音のこのご詠歌に偽りなければ、きっと頼朝との仲も戻り、
 また世に出ることができましょうと祈って、静は義経のもとを去っていきます

 標茅ケ原は、現在の栃木市合戦場辺りの地名です。
 この近くには伊吹山もあり、もぐさの産地として知られています。
 伊吹山自生のオオヨモギは、お灸の材料として全国に知られていました。
 その特徴として、一度火をつけると消えにくく、
 長時間熱さが持続するということから、愛の燃ゆる想いを表すとされています。
 古松軒も書いているように近江の国にもそのような地名があり、
 そちらの伊吹山の方が有名な感じがします。

 この東遊雑記は、古川古松軒が旅先で自ら実見、体感したままを記述し、
 学問的に考察しようとする点に特色があります。
 「上方・中国筋」を基準として、その土地の不便性、後進性の程度を批評したり、
 林子平の「三国通覧図説」など他書を批判するなど、
 徹底的な経験主義や現実主義で記していて、
 しかも神秘的世界を完全に否定している点が、素晴らしいと思いました。
 北海道に1か月弱滞在していますが、
 アイヌの風俗などについて、細かく調べて図示しながら記述しています。
 北海道を探検した近藤重蔵は「東遊雑記」を携えて蝦夷地を旅し、
 とても良く述べられていると感心したようです。

コメント (2)
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敷島の大和心

2019-02-01 | Weblog
 本居宣長の歌に、
 敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花 があります。

 この歌について、
 三重県松坂市にある本居宣長記念館では、下記の通り紹介しています。

 この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。
 賛の全文は、
 「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に
  てづからうつしたるおのがゝたなり、
  筆のついでに、
  しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」です。
 歌は、画像でお前の姿形はわかったが、
 では心について尋ねたい、と言う質問があったことを想定しています。
 宣長は答えます。
 「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、
  その麗しさに感動する、そのような心です。」
 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、
 どこまでも宣長自身の心なのです。
 だからこの歌は家集『鈴屋集』にも載せられなかったのです。

 しかしながら、この歌は、宣長の気持ちとは異なり、
 明治時代以降、軍国主義を煽るような意味合いで使われていました。
 「花は桜木 人は武士」の一休宗純の言葉と同じように、
 都合の良いように解釈されたものなのでしょう。

 1898年(明治31年)に進水した戦艦に敷島があります。
 翌年に進水した戦艦が朝日で、共に日露戦争の際の主力艦になります。
 大和は、太平洋戦争の際の戦艦を思い浮かべますが、
 それ以前に1885年(明治18年)に進水し、日清戦争で使用された、
 3本マストの木帆兼用の巡洋艦がありました。
 このため、大和が使えず朝日になったような感じもします。

 1904年(明治37年)7月、日露戦争の戦費を調達する必要に迫られ、
 明治政府は煙草の製造専売にふみ切ります。
 この時に初めて売り出された煙草が、
 「敷島」(8銭)「大和」(7銭)
 「朝日」(6銭)「山桜」(5銭)です。
 これらの煙草は、
 吸口部分に円筒形の紙を付けた「口付たばこ」です。
 これは完全に宣長の歌から取った命名ですね。

 この歌を元にした狂歌もあります。
 敷島の 大和心を 人問わば 西日に 臭う 雪隠の窓

 作者は、明治から大正に掛けての社会主義者、堺利彦であろうと、
 淮陰生と名乗って
 岩波書店の雑誌「図書」にコラムを書いていた中野好夫が書いていました。

 宣長の歌が、上流社会の文化を踏まえているのに対して、
 堺利彦の歌は、庶民の生活を表しているように感じます。
 僕は、いずれも好きです。

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