天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

快川和尚の袈裟

2014-02-19 | Weblog
 快川紹喜の名を知らなくても、
 「心頭滅却すれば火も亦た涼し」の偈はご存知の方が多いでしょう。
 妙心寺の43世に就任した後、武田信玄に迎えられて塩山恵林寺に入り、
 信玄に機山の号を授けています。
 織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱した中で、
 中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため、
 信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、
 織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、
 一山の僧とともに焼死を遂げ、
 この時辞世の偈を唱えたと言われています。

 この偈は、元々は碧巌録に載っている杜荀鶴の詩の転結句です。
 安禅不必須山水 安禅は必ずしも山水を須いず
 滅却心頭火自涼 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し

 先日、岩井三四二さんの歴史短編小説集の
 「難儀でござる」を読んでいたら、
 その中の一編、「一句 言うてみい」に、
 快川和尚の袈裟が残っているとの話がありました。
 調べてみたら、大分県臼杵市の月桂寺に残っていて、
 臼杵市の文化財になっている事を知りました。

 山門の中に押し込められ、火を点けられた快川和尚は、
 その時着ていた袈裟を脱いで、法嗣の南化に渡すよう、弟子の湖南に命じます。
 湖南は、織田軍の包囲を抜けて南化に袈裟を伝えます。
 この南化は、稲葉一鉄が帰依した高僧でした。
 南化に弟子入りし、その法嗣となった湖南は、快川和尚の袈裟を譲られ、
 稲葉氏が臼杵に移封された事に伴い稲葉典通に請われて、月桂寺の開山となりました。
 このため、袈裟が今も伝えられているとの事です。
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日本の音楽教育の始まり・・・

2014-02-11 | Weblog
 伊澤修二と言う人をご存知でしょうか?
 彼は、日本の音楽教育を始めた人物です。

 伊澤修二は、1851年(嘉永4年)、信濃国高遠藩士の息子として生まれます。
 1861年(文久元年)から藩校の進徳館で学び、1867年(慶応3年)に江戸へ出て、
 京都へも遊学して蘭学などを学びます。
 同年には藩の貢進生として大学南校に進学します。

 1872年(明治5年)に文部省へ出仕し、
 1874年(明治7年)に、24歳の若さで愛知師範学校校長となります。
 1875年(明治8年)には師範学校教育調査のためにアメリカへ留学し、
 マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校で学び、
 グラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学びます。
 その後、ハーバード大学で理化学を学び、地質学、聾唖教育を研究し、
 1878年(明治11年)5月に帰国します。

 1879年(明治12年)3月には東京師範学校の校長となり、
 音楽取調掛に任命されると恩師のメーソンを日本に招きます。
 メーソンは、1880年(明治13年)に来日し、
 東京師範学校、東京女子師範学校で、唱歌教育を始めます。
 ここに、日本の音楽教育、即ち西洋音楽の普及が始まった訳です。
 伊澤は、「小學唱歌集」を編纂していますし、
 1888年(明治21年)には、唱歌「紀元節」を作曲しています。

 メーソンは、来日の際にピアノを持参し、音楽取調掛に備え付け、
 更にその後、10台のピアノと20冊のバイエル教則本が日本に届きます。

 このメーソンが輸入したと思われる10台のスクエアピアノの1台が、
 東京芸術大学に残されていました。
 伊澤修二は、1887年(明治20年)に
 東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の初代校長に就任していますから、
 その可能性が高いものと考えられます。
 老朽化が進んで、使用できない状態だったのですが、
 数年前、栃木県在住の調律師の小野哲さんが、4年掛かりでこれを復元しました。

 その復元が完成して開催されたコンサートに行った事がありました。
 「スクエアピアノを弾いてみれば 文明開化の音がする」との副題の付いた催しでした。
 このピアノの演奏を聴きながら、
 初めて西洋音楽に触れた人の事を想像していました。
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地球の年齢

2014-02-01 | Weblog
 前に、宇宙の年齢が137億年前であると書きました。
 では、地球の年齢は幾つかと言う問題が出て来ます。

 地球は恒星である太陽によって誕生しました。
 太陽ができたのが、概ね50億年前と考えられていますが、
 当初は星雲のような状態でした。
 その星雲の中で、数km程度の微惑星が衝突、
 合体して惑星が誕生します。

 ある程度大きくなった地球に、更に微惑星が衝突すると、
 そのエネルギーは熱となって原始地球を温めます。
 初めの内は、その熱は宇宙にどんどんと放出されますが、
 衝突により微惑星に含まれていた気体になりやすい主に水が、
 表面にたまると、水蒸気の温室効果で、
 衝突で発生した熱が宇宙に放射されなくなります。
 地球の表面の温度は岩石の融点を超え、
 表面全体がマグマになってしまいます。

 このような地球誕生の初期の段階で、火星程度の大きさの別の惑星が、
 かすめるような形で衝突したと、現在では考えられています。
 月はこのときにはぎ取られた原始地球のマントル物質と、
 衝突した別の惑星のマントル物質の混合物が再び集積してできたとされています。

 こうして出来上がった地球ですが、
 放射性元素であるウランの測定と、ウランが変化した鉛、
 特に隕石に含まれる鉛を比較する事によって、
 約46億年前に誕生したと考えられています。

 46億年という長い地球の歴史の中で
 大量の生物が住むようになったのは、古生代以降の5億4200万年でしかありません。
 ほ乳類が栄えるのは新生代の最近6550万年間に過ぎず、
 これは地球の歴史の1.46%に過ぎません。
 さらに人類が登場したのを200万年前とすると、
 0.044%ということになります。

 地球の歴史46億年を1年とすると、
 古生代の始まりは11月19日ころ、
 新生代の始まりは12月26日の午後6時過ぎ、
 人類の登場は12月31日の午後8時過ぎということになります。
コメント (2)
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