快川紹喜の名を知らなくても、
「心頭滅却すれば火も亦た涼し」の偈はご存知の方が多いでしょう。
妙心寺の43世に就任した後、武田信玄に迎えられて塩山恵林寺に入り、
信玄に機山の号を授けています。
織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱した中で、
中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため、
信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、
織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、
一山の僧とともに焼死を遂げ、
この時辞世の偈を唱えたと言われています。
この偈は、元々は碧巌録に載っている杜荀鶴の詩の転結句です。
安禅不必須山水 安禅は必ずしも山水を須いず
滅却心頭火自涼 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し
先日、岩井三四二さんの歴史短編小説集の
「難儀でござる」を読んでいたら、
その中の一編、「一句 言うてみい」に、
快川和尚の袈裟が残っているとの話がありました。
調べてみたら、大分県臼杵市の月桂寺に残っていて、
臼杵市の文化財になっている事を知りました。
山門の中に押し込められ、火を点けられた快川和尚は、
その時着ていた袈裟を脱いで、法嗣の南化に渡すよう、弟子の湖南に命じます。
湖南は、織田軍の包囲を抜けて南化に袈裟を伝えます。
この南化は、稲葉一鉄が帰依した高僧でした。
南化に弟子入りし、その法嗣となった湖南は、快川和尚の袈裟を譲られ、
稲葉氏が臼杵に移封された事に伴い稲葉典通に請われて、月桂寺の開山となりました。
このため、袈裟が今も伝えられているとの事です。
「心頭滅却すれば火も亦た涼し」の偈はご存知の方が多いでしょう。
妙心寺の43世に就任した後、武田信玄に迎えられて塩山恵林寺に入り、
信玄に機山の号を授けています。
織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱した中で、
中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため、
信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、
織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、
一山の僧とともに焼死を遂げ、
この時辞世の偈を唱えたと言われています。
この偈は、元々は碧巌録に載っている杜荀鶴の詩の転結句です。
安禅不必須山水 安禅は必ずしも山水を須いず
滅却心頭火自涼 心頭を滅却すれば火も自ずから涼し
先日、岩井三四二さんの歴史短編小説集の
「難儀でござる」を読んでいたら、
その中の一編、「一句 言うてみい」に、
快川和尚の袈裟が残っているとの話がありました。
調べてみたら、大分県臼杵市の月桂寺に残っていて、
臼杵市の文化財になっている事を知りました。
山門の中に押し込められ、火を点けられた快川和尚は、
その時着ていた袈裟を脱いで、法嗣の南化に渡すよう、弟子の湖南に命じます。
湖南は、織田軍の包囲を抜けて南化に袈裟を伝えます。
この南化は、稲葉一鉄が帰依した高僧でした。
南化に弟子入りし、その法嗣となった湖南は、快川和尚の袈裟を譲られ、
稲葉氏が臼杵に移封された事に伴い稲葉典通に請われて、月桂寺の開山となりました。
このため、袈裟が今も伝えられているとの事です。