天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

高杉晋作の日光見物

2017-01-26 | Weblog
 先日、一坂太郎さんの
 『高杉晋作の「革命日記」』を読みました。
 高杉は筆まめな人だったようで、
 6編の日記を残しています。
 それぞれの日記を現代の言葉に翻訳して、
 解説を付けた著作で、
 高杉を理解するのには良い本だと思います。

 6編の日記の中の「試撃行日譜」の一部については、
 「高杉晋作の剣術」と題して、以前ここでも書きました。
 http://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/cc73b1747acd1bf45d87c95eb96032ba

 江戸を出発して、北関東から長野に行き、
 大阪から船で長州に戻る日記ですが、
 出発してから細かく記していたのですが、
 栃木県内の壬生で剣術の試合をして負けてしまってから、
 日記は断片的になりました。

 壬生で試合をする前、高杉は日光見物をしていて、
 丹念にその様子を記述しています。
 万延元年(1860年)8月28日に江戸を発った高杉は、
 笠間の加藤有隣を訪ねた後、9月5日に宇都宮に入ります。
 宇都宮で剣術の試合をしようとしますが、誰も受けてくれず、
 宇都宮城下は賑やかで人家も密集しているが、
 がらが悪く士風軽薄だと嘲笑します。
 9月6日、宇都宮を発ち、日光山下に到着し、
 日光衛士山口為之助に試合を申し込みますが、
 山口は不在で相手にしてもらえませんでした。

 9月7日早朝、案内人と共に宿を発ち、中禅寺を目指します。
 途中寂光の滝、裏見の滝を見て華厳の滝に行きます。
 さらに中禅寺湖に至り、そこから日光の宿に戻ります。

 9月8日は、宿の主人の案内で、東照宮を参拝します。
 「その他神社仏閣が数々あるが、いずれも賽銭を取り、
  僧侶どもが迷える庶民を惑わす事甚だしい。
  実に嘆かわしい事である。」と書いています。
 更に、
 「東照宮の社殿は広大無辺。金銀金具、唐木の彫り物、
  その他石灯籠など、諸大名が幕府に媚びへつらい
  奉納した物が数え切れぬほどある。
  この点については少し意見がある。」と書いています。

 高杉の師吉田松陰は、その前年に幕府に処刑されていますので、
 高杉の幕府に対する思いも分からないではない感じがします。
 松陰も嘉永5年(1852年)に東北遊歴の際、
 東照宮を見物していますが、
 彼は「爛々として目を眩ます。あぁ美なるかな。」と
 絶賛しています。

 なお、長州藩が東照宮修復を幕府から命じられた時、
 その指揮を執ったのが、晋作の曾祖父高杉小左衛門でした。
 その辺の事を晋作が知らなかったとは思えませんが。

 東照宮から戻って、宿で昼食を摂った後、
 晋作は日光を発ち、例幣使街道を通って鹿沼宿に泊まり、
 9月9日、壬生に入ります。

コメント (2)
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早稲田大学第二校歌

2017-01-10 | Weblog
 早稲田大学校歌といえば相馬御風作詞の「都の西北」が有名ですが、
 第二校歌もあります。
 早稲田の関係者ぐらいきり知らないかと思い、書いてみる事にしました。

 元々は村田英雄が歌った佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲の「人生劇場」ですが、
 これに尾崎士郎の名作「人生劇場」の文章を使って台詞を入れています。
 そして、3番までの歌詞に4番を加えています。

 台詞の部分は各サークルなどの伝統で、幾つかのタイプがあるようです。
 元早稲田の総長だった奥平先生も第二校歌がお好きだったようで、
 総長が演じるのが正調なのかも知れませんが、僕が覚えているのと少し違います。
 取りあえず、僕の覚えているのは下記の通りです。

 早稲田大学第二校歌「人生劇場」始まり始まり
 嗚呼 昨日も聞いた今日も見た 早稲田の街に青成瓢吉が忽然と歩いて行くと言う。
 おい瓢吉 おいどんが気持ちが分からんとか。
 我が胸の 燃ゆる思いに 比ぶれば 煙は薄し 桜島山

  やると思えば どこまでやるさ
  それが男の魂じゃないか
  義理がすたれば この世は闇だ
  なまじとめるな 夜の雨

 嗚呼 歓楽は女の命にして、虚栄はまた女の真情であります。
 僅か七日ばかりの享楽を得んがため、
 哀れ乙女の貞操は異性に供じられたのであります。
 覆水盆に帰らずのたとえの如く、父母を偽りし罪深きメリーよ。
 チンタッター、チンタッタ。
 その時、一代の俊傑 夏村大蔵はこう言ったのであります。

  あんな女に 未練はないが
  なぜか涙が 流れてならぬ
  男心は 男でなけりゃ
  分かるものかと 諦めた

 頃は大正の末年、夕風も涼しき三州横須賀村に、
 印ばん天にもじりの外套、雪駄に乗せたる身もいと軽く、
 帰り来たりしは音にも聞こえし吉良常なり。

  時世時節は 変わろとままよ
  吉良の仁吉は 男じゃないか
  俺も生きたや 仁吉のように
  義理と人情の この世界

 嗚呼 夢の世や夢の世や、今は三歳のその昔、
 いと懐かしき父母や、十有余年のその間、朝な夕なに眺めたる、
 春は花咲き、夏茂り、秋は紅葉の錦織、冬は雪降る故郷の、
 生まれは正しき郷士にて、男子(おのこ)一人に生まれたる。
 宿世の恋の戯れか、また運命の悪戯か、
 一人旅立つ東京の、学びの庭は、早稲田なり。

  端(はした)役者の 俺ではあるが
  早稲田に学んで 波風受けて
  行くが男の この花道を
  人生劇場 いざ序幕


奥島元総長の人生劇場がありましたので、それも記しておきます。

 早稲田の杜が芽生く頃、花の香りは沈丁花、人生意気に感じたら、
 びくともするなと銅像が、ビクともせずに風に立つ。
 崩れかかった築山は、江戸の昔の高田富士、
 町を見下ろす天辺で、意気に感じた若者が、夕日に向かって吼えていた。
 春と一緒に青春の、波がドンドン押し寄せて、
 男子ばかりか女子まで、杜の宴に酔いしれる。

 逢うは別離の始めとか、さよならだけが人生さ、ああ人生のローマンス。
 昨日も聞いた今日も見た、早稲田の杜に青成瓢吉の出るという。
 ご存知尾崎士郎原作「人生劇場」の一節より。
 ああ歓楽は女の命にして、虚栄は女の真情であります。
 わずか七日ばかりの享楽を得んがため、哀れはかなくも美しき乙女の貞操は
 犠牲に供ぜられたのであります。
 覆水盆に返らずのたとえあるが如く、親をいつわりし罪、いと深きかな。
 ああ哀れメリーさんよ、チンタッタ、チンタッタ。

 1番歌詞

 君見ずや荒川土手の緑、さらに緑なるその中に、一点の紅を点ずる者あり、
 その名をお袖という。
 月よし、酒よしお袖さらによし。深窓の令嬢に恋する真の恋と誰がいう。
 泣いて笑ってこびを売る月下の酒場の女にも水蓮の如き純情あり。
 そのとき、かの熱血漢新海一八はこうつぶやいたのであります。
 「我が胸のもゆる想いに比ぶれば煙は薄し櫻島山。」

 2番歌詞

 時は大正の末年、夕暮れのいと寂しき処、三州横須賀村、
 印ばん天にもじりの外套、雪駄に乗せる身もいと軽く、
 帰り来たりしは音にも聞こえし吉良常なり。

 3番歌詞

 ああ夢の世や夢の世や、今は三歳のその昔、
 いとなつかしき父母や、十有余年がその間、朝な夕なに
 眺めたる、春は花咲き、夏茂り、秋はもみじの錦布ぬ、冬は雪降る故郷の、
 生まれは正しき郷士にて、
 ひとり男子と生まれたる、宿世の恋のはかなさか、はたまた運命の悪戯か、
 うきたつ雲にさそわれてひとり旅立つ東京の、学びの庭は早稲田なり。

 4番歌詞
コメント (6)
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