先日、一坂太郎さんの
『高杉晋作の「革命日記」』を読みました。
高杉は筆まめな人だったようで、
6編の日記を残しています。
それぞれの日記を現代の言葉に翻訳して、
解説を付けた著作で、
高杉を理解するのには良い本だと思います。
6編の日記の中の「試撃行日譜」の一部については、
「高杉晋作の剣術」と題して、以前ここでも書きました。
http://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/cc73b1747acd1bf45d87c95eb96032ba
江戸を出発して、北関東から長野に行き、
大阪から船で長州に戻る日記ですが、
出発してから細かく記していたのですが、
栃木県内の壬生で剣術の試合をして負けてしまってから、
日記は断片的になりました。
壬生で試合をする前、高杉は日光見物をしていて、
丹念にその様子を記述しています。
万延元年(1860年)8月28日に江戸を発った高杉は、
笠間の加藤有隣を訪ねた後、9月5日に宇都宮に入ります。
宇都宮で剣術の試合をしようとしますが、誰も受けてくれず、
宇都宮城下は賑やかで人家も密集しているが、
がらが悪く士風軽薄だと嘲笑します。
9月6日、宇都宮を発ち、日光山下に到着し、
日光衛士山口為之助に試合を申し込みますが、
山口は不在で相手にしてもらえませんでした。
9月7日早朝、案内人と共に宿を発ち、中禅寺を目指します。
途中寂光の滝、裏見の滝を見て華厳の滝に行きます。
さらに中禅寺湖に至り、そこから日光の宿に戻ります。
9月8日は、宿の主人の案内で、東照宮を参拝します。
「その他神社仏閣が数々あるが、いずれも賽銭を取り、
僧侶どもが迷える庶民を惑わす事甚だしい。
実に嘆かわしい事である。」と書いています。
更に、
「東照宮の社殿は広大無辺。金銀金具、唐木の彫り物、
その他石灯籠など、諸大名が幕府に媚びへつらい
奉納した物が数え切れぬほどある。
この点については少し意見がある。」と書いています。
高杉の師吉田松陰は、その前年に幕府に処刑されていますので、
高杉の幕府に対する思いも分からないではない感じがします。
松陰も嘉永5年(1852年)に東北遊歴の際、
東照宮を見物していますが、
彼は「爛々として目を眩ます。あぁ美なるかな。」と
絶賛しています。
なお、長州藩が東照宮修復を幕府から命じられた時、
その指揮を執ったのが、晋作の曾祖父高杉小左衛門でした。
その辺の事を晋作が知らなかったとは思えませんが。
東照宮から戻って、宿で昼食を摂った後、
晋作は日光を発ち、例幣使街道を通って鹿沼宿に泊まり、
9月9日、壬生に入ります。
『高杉晋作の「革命日記」』を読みました。
高杉は筆まめな人だったようで、
6編の日記を残しています。
それぞれの日記を現代の言葉に翻訳して、
解説を付けた著作で、
高杉を理解するのには良い本だと思います。
6編の日記の中の「試撃行日譜」の一部については、
「高杉晋作の剣術」と題して、以前ここでも書きました。
http://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/cc73b1747acd1bf45d87c95eb96032ba
江戸を出発して、北関東から長野に行き、
大阪から船で長州に戻る日記ですが、
出発してから細かく記していたのですが、
栃木県内の壬生で剣術の試合をして負けてしまってから、
日記は断片的になりました。
壬生で試合をする前、高杉は日光見物をしていて、
丹念にその様子を記述しています。
万延元年(1860年)8月28日に江戸を発った高杉は、
笠間の加藤有隣を訪ねた後、9月5日に宇都宮に入ります。
宇都宮で剣術の試合をしようとしますが、誰も受けてくれず、
宇都宮城下は賑やかで人家も密集しているが、
がらが悪く士風軽薄だと嘲笑します。
9月6日、宇都宮を発ち、日光山下に到着し、
日光衛士山口為之助に試合を申し込みますが、
山口は不在で相手にしてもらえませんでした。
9月7日早朝、案内人と共に宿を発ち、中禅寺を目指します。
途中寂光の滝、裏見の滝を見て華厳の滝に行きます。
さらに中禅寺湖に至り、そこから日光の宿に戻ります。
9月8日は、宿の主人の案内で、東照宮を参拝します。
「その他神社仏閣が数々あるが、いずれも賽銭を取り、
僧侶どもが迷える庶民を惑わす事甚だしい。
実に嘆かわしい事である。」と書いています。
更に、
「東照宮の社殿は広大無辺。金銀金具、唐木の彫り物、
その他石灯籠など、諸大名が幕府に媚びへつらい
奉納した物が数え切れぬほどある。
この点については少し意見がある。」と書いています。
高杉の師吉田松陰は、その前年に幕府に処刑されていますので、
高杉の幕府に対する思いも分からないではない感じがします。
松陰も嘉永5年(1852年)に東北遊歴の際、
東照宮を見物していますが、
彼は「爛々として目を眩ます。あぁ美なるかな。」と
絶賛しています。
なお、長州藩が東照宮修復を幕府から命じられた時、
その指揮を執ったのが、晋作の曾祖父高杉小左衛門でした。
その辺の事を晋作が知らなかったとは思えませんが。
東照宮から戻って、宿で昼食を摂った後、
晋作は日光を発ち、例幣使街道を通って鹿沼宿に泊まり、
9月9日、壬生に入ります。