天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

江戸の町を象が歩く

2010-11-29 | Weblog
 太古に日本に象がいたのは間違いありませんが、
 歴史時代に入ってからは、象はいませんでした。
 室町幕府4代将軍の足利義持の時に、
 日本に来た事があるそうです。
 その後、豊臣秀吉の時にもマニラ提督から、
 徳川家康の時にはヴェトナムから象が来たそうです。
 結構、日本にも象は輸入されていたのですね。

 1728年(享保13年)、清の商人によって、
 雌雄2頭のインド象が長崎に輸入されました。
 日本に象が来たのは5回目の事のようです。
 この雌雄の象は、
 8代将軍徳川吉宗が、見たいと取り寄せたもののようです。
 2頭の内、雌は到着後3ヶ月の内に長崎で死亡してしまいます。
 その後、残った象は陸路で江戸に向かいます。
 途中、京都では、時の中御門天皇、
 霊元上皇もご覧になったようです。
 天皇がご覧になるため、無位無官と言う訳には行かず、
 この象に「従四位広南白象」という位が与えられた上で、
 1729年(享保14年)4月28日、朝廷に参内しました。

 象が江戸に着いたのは、5月25日で、
 江戸市民の熱狂的な歓迎を受けながら、市中を練り歩き、
 浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に収容されました。
 2日後、徳川吉宗は、象を江戸城に召し、
 大広間の前庭において観覧しました。
 この時、19歳になる家重は、一目見るなり、
 そのまま奥に引っ込んでしまったと言われています。

 その後10年以上にわたって浜御殿で幕府が飼育にあたりましたが、
 その間、吉宗は、象を見るのを楽しみの一つとし、
 何度か江戸城に召し出したと言われています。
 当時の江戸では、
 錦絵や瓦版などの出版物や歌舞伎などでも取り上げられ、
 一大象ブームが起きたようです。

 その後、この象は民間に払い下げられる事になり、
 1741年(寛保元年)、
 「見晴らし」という屋号の掛茶屋も営んでいた
 中野村(現東京都中野区)の農民源助が引き取りました。
 源助は象小屋を訪れる人から見物料を徴収するばかりか、
 象の糞を乾燥させ「象洞」と言う薬として、
 万病に効くと売り出したようです。
 しかし、翌1742年(寛保2年)象は病死しし、
 その頭蓋骨・牙・鼻の皮は地元の宝仙寺に預けられますが、
 太平洋戦争で消失し、炭化した牙1本が残っているだけだそうです。
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籤で決まった将軍

2010-11-16 | Weblog
 現在の選挙制度では、投票で同数の場合は籤で決定する事になっています。
 国政の選挙などの大きな選挙では、そのような例もないかと思いますが、
 町村の議員の選挙では、そのような事も実際にありました。

 選挙制度などなかった室町時代、籤で将軍になった人がいます。
 6代将軍の足利義教がその人です。
 足利義教は、3代将軍の足利義満の3男として、
 1394年(応永元年)に生まれます。
 当時の足利幕府においては、
 慣例で家督相続者以外の子は仏門に入る事になっていました。
 これにより、義教も出家して義円と名乗り青蓮院門跡となります。
 ところが、兄である4代将軍足利義持が、
 1423年(応永30年)出家して息子の義量が5代将軍に就きます。
 この義量が、将軍になって2年後の1425年(応永32年)、
 19歳の若さで死亡します。
 義持には他に男子がなく、将軍の地位が空位となりますが、
 出家していた義持は将軍を決定せずに亡くなってしまいます。
 このため、管領畠山満家の発案によって、
 義持の4人の弟、青蓮院義円、相国寺永隆、大覚寺義昭、梶井義承の中から
 次期将軍を籤で決める事になりました。

 1428年(正長元年)、石清水八幡宮で籤引きが行われ、
 青蓮院義円が将軍に選ばれることになります。
 この籤引きに関しては、不正があったとの説もあるようですが、
 ともかくも、義円は翌年(永享元年)征夷大将軍に任じられ、
 足利義宣と名乗ります。
 しかし、義宣は「世を忍ぶ」に通じるとして、義教と改名します。
 人生が大きく変わって将軍となった義教は、
 やはり期するものがあったのでしょう、
 父義満が過去に実現させた将軍親政の再興を目指します。
 そのため、管領の権限抑制策を布いたり、
 義持の代から中断していた勘合貿易を再開したり、
 義教の将軍就任に不満を持っていた鎌倉公方足利持氏を、
 関東管領上杉憲実と結んで自害させる(いわゆる永享の乱)など、
 幕府権力の強化に一定の成果を挙げます。
 しかしながら一方で、義教は、短気で勘気と猜疑心の強い性格と言われ、
 人々の疑心暗鬼と恐怖心を煽っての恐怖政治となって行きます。
 そして、1441年(嘉吉元年)赤松満祐・ 教康父子に、宴に招かれて、
 その屋敷で暗殺されてしまいます。
 この結果、幕府の権威は失墜し、後の応仁の乱に繋がって行きます。
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ベストアダー賞

2010-11-02 | Weblog
 ベストアダー賞と言うのをご存知でしょうか?
 酪農関係の方は、ピンと来ると思います。
 アダーは、udderで、牛や山羊の乳房を表す英語です。
 乳牛のコンテストで、一番良い乳器の牛に与えられる賞が
 ベストアダー賞です。

 どのような乳器が良いのかと言う事になると、
 キチンと審査基準があります。
 乳器の審査標準は、
 「乳房の付着が強く、よく発達し、4乳区がつりあい、質がよく、
 長年にわたり高い生産能力を現すもの」とされています。
 更に、「前乳房」「後乳房」「乳房の懸垂」「乳房の深さ」
 「乳房の質」「乳頭」の項目から審査されます。
 ちなみに、「乳房の質」の項目では、
 「柔軟で、弾力に富み、搾乳直後はよく収縮するもの」が
 良いとされています。
 大きければ良いとか、美しければ良いと言う訳ではないようです。
 ちなみに、乳器も含めて、
 「ホルスタイン種雌牛審査標準」なるものが手元にあります。
 100点満点の内、40点が乳器に配分されていますので、
 やはり乳牛の命が乳器である事は間違いありません。
 しかし、それだけではなく、15点が配分されている「外貌」の項目では、
 「雌牛らしく、姿勢は優美で、各部のつりあいがよく、生き生きとして、
 品位に富み、性質が温順なもの」とされています。

 5年前の11月、栃木県では「ファームフェスタ2005」が開催され、
 その中で、ホルスタインの共進会も開かれて、
 全国各地から、優れた乳牛が集まって、コンテストが行われました。
 僕も、見に行きましたが、
 さすがに国内のトップクラスの乳牛だけあって、
 素人の僕が見ても、素晴らしい乳牛だと思いました。
 ベストアダー賞と言う言葉を覚えて以来、
 街中で見掛ける、綺麗な胸の女性を見ると、
 思わず「ベストアダー賞」とつぶやいてしまいます^^
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