太古に日本に象がいたのは間違いありませんが、
歴史時代に入ってからは、象はいませんでした。
室町幕府4代将軍の足利義持の時に、
日本に来た事があるそうです。
その後、豊臣秀吉の時にもマニラ提督から、
徳川家康の時にはヴェトナムから象が来たそうです。
結構、日本にも象は輸入されていたのですね。
1728年(享保13年)、清の商人によって、
雌雄2頭のインド象が長崎に輸入されました。
日本に象が来たのは5回目の事のようです。
この雌雄の象は、
8代将軍徳川吉宗が、見たいと取り寄せたもののようです。
2頭の内、雌は到着後3ヶ月の内に長崎で死亡してしまいます。
その後、残った象は陸路で江戸に向かいます。
途中、京都では、時の中御門天皇、
霊元上皇もご覧になったようです。
天皇がご覧になるため、無位無官と言う訳には行かず、
この象に「従四位広南白象」という位が与えられた上で、
1729年(享保14年)4月28日、朝廷に参内しました。
象が江戸に着いたのは、5月25日で、
江戸市民の熱狂的な歓迎を受けながら、市中を練り歩き、
浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に収容されました。
2日後、徳川吉宗は、象を江戸城に召し、
大広間の前庭において観覧しました。
この時、19歳になる家重は、一目見るなり、
そのまま奥に引っ込んでしまったと言われています。
その後10年以上にわたって浜御殿で幕府が飼育にあたりましたが、
その間、吉宗は、象を見るのを楽しみの一つとし、
何度か江戸城に召し出したと言われています。
当時の江戸では、
錦絵や瓦版などの出版物や歌舞伎などでも取り上げられ、
一大象ブームが起きたようです。
その後、この象は民間に払い下げられる事になり、
1741年(寛保元年)、
「見晴らし」という屋号の掛茶屋も営んでいた
中野村(現東京都中野区)の農民源助が引き取りました。
源助は象小屋を訪れる人から見物料を徴収するばかりか、
象の糞を乾燥させ「象洞」と言う薬として、
万病に効くと売り出したようです。
しかし、翌1742年(寛保2年)象は病死しし、
その頭蓋骨・牙・鼻の皮は地元の宝仙寺に預けられますが、
太平洋戦争で消失し、炭化した牙1本が残っているだけだそうです。
歴史時代に入ってからは、象はいませんでした。
室町幕府4代将軍の足利義持の時に、
日本に来た事があるそうです。
その後、豊臣秀吉の時にもマニラ提督から、
徳川家康の時にはヴェトナムから象が来たそうです。
結構、日本にも象は輸入されていたのですね。
1728年(享保13年)、清の商人によって、
雌雄2頭のインド象が長崎に輸入されました。
日本に象が来たのは5回目の事のようです。
この雌雄の象は、
8代将軍徳川吉宗が、見たいと取り寄せたもののようです。
2頭の内、雌は到着後3ヶ月の内に長崎で死亡してしまいます。
その後、残った象は陸路で江戸に向かいます。
途中、京都では、時の中御門天皇、
霊元上皇もご覧になったようです。
天皇がご覧になるため、無位無官と言う訳には行かず、
この象に「従四位広南白象」という位が与えられた上で、
1729年(享保14年)4月28日、朝廷に参内しました。
象が江戸に着いたのは、5月25日で、
江戸市民の熱狂的な歓迎を受けながら、市中を練り歩き、
浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)に収容されました。
2日後、徳川吉宗は、象を江戸城に召し、
大広間の前庭において観覧しました。
この時、19歳になる家重は、一目見るなり、
そのまま奥に引っ込んでしまったと言われています。
その後10年以上にわたって浜御殿で幕府が飼育にあたりましたが、
その間、吉宗は、象を見るのを楽しみの一つとし、
何度か江戸城に召し出したと言われています。
当時の江戸では、
錦絵や瓦版などの出版物や歌舞伎などでも取り上げられ、
一大象ブームが起きたようです。
その後、この象は民間に払い下げられる事になり、
1741年(寛保元年)、
「見晴らし」という屋号の掛茶屋も営んでいた
中野村(現東京都中野区)の農民源助が引き取りました。
源助は象小屋を訪れる人から見物料を徴収するばかりか、
象の糞を乾燥させ「象洞」と言う薬として、
万病に効くと売り出したようです。
しかし、翌1742年(寛保2年)象は病死しし、
その頭蓋骨・牙・鼻の皮は地元の宝仙寺に預けられますが、
太平洋戦争で消失し、炭化した牙1本が残っているだけだそうです。