天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

下の苦(句)は知らぬ

2010-10-22 | Weblog
 明治7年から8年に掛けて出版された
 「開化問答」と言う小冊子があります。
 その中に、面白い小噺が出て来ると、
 淮陰生が書いているので、2つ紹介します。

 『ある時天子様が高楼にましまして、
  東京の市中を御覧ぜさせられしが、
  やがて、「高き屋に登りて見れば煙り立つ、
  高き屋に登りて見れば煙り立つ」と
  2・3返繰返して吟じ給ひたる事がござる。
  ソコデ御傍に付添へる侍従の方々が天子様に御向ひ申し、
  「恐れ乍ら、下の句は何と申しますか」と伺しかば、
  天子様曰く、
  「朕は下の苦(句)は知らぬ」と
  仰ったなどと悪口を頻りに唱えており升。』

 『この頃天子様は喘息を御患ひなさる。
  何故といふに、頻りに
  「税々(ゼイゼイ)」とおっしゃるなどと悪口をいふて居り升。』

 今の世の中、果たしてこれだけ皇室を風刺できるかと言うと、
 メディアの世界では、できないでしょうね。
 もちろん、天皇が政治を摂っているかどうかと言う
 問題もあるかも知れませんが・・・
 しかし、今の日本では、
 神聖にして侵すべからずが定着してしまっているようにも思います。
 明治初年ばかりでなく、自由民権運動の時代には、
 「蕎麦打ち演説」と言うのも行われていました。
 蕎麦の実は三角形をしていますが、
 この三つの角=ミカドを潰さなければいけないと言うような趣旨の演説です。
 これなど、かなりきわどい感じがしますが、それでも行われていたようです。
 明治時代には、今よりも言論の自由があったのかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間は秋に生まれた

2010-10-11 | Weblog
 この言葉が以前から頭の中に残っていました。
 いつ知った言葉なのか、何の本に載っていた言葉なのか、
 スッカリ忘れていました。
 感じとしては、大江健三郎とかそこら辺りの言葉かと思っていました。

 先日、ある友達に何気なくこの言葉を使いました。
 その友達が、丁寧にも調べてくれました。
 それは、若くして亡くなった、
 短歌の才能のある人の遺稿集のタイトルである事が分かりました。
 そして、その若者は、宇都宮の出身で、
 高校で僕の1年先輩である事を知りました。

 県立図書館に、その本がありました。
 彼、杉山隆さんは、
 中学校3年の時、朝日歌壇で初めて入選を果たしています。
 高校時代にも、作歌に励み、
 歌人の宮柊ニさんに、その才能を評価されていました。
 遺稿集には、宮さんの追悼文も掲載されていました。

 彼は、高校卒業後、大学入学は果たせず浪人をしていましたが、
 その間にも、宮さんの主宰するコスモス短歌会が公募した
 O先生賞(折口信夫賞)に応募します。
 その結果が届く前の昭和45年7月7日夜、
 彼は宇都宮大学の4階から墜死しました。
 原因は、今もって分かりませんが、
 どうも自殺ではなく、事故死のような気がします。
 O先生賞の受賞の知らせが届いたのは、
 彼の葬儀の日であったと言う事です。
 
 遺稿集には、彼の遺影が載っていました。
 1年先輩なのですが、見た事あるような気がしました。
 遺稿集を読んで見ました。
 彼の日記や、短歌などでした。
 才能のあった若者の死を悼む気持ちになりました。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする