天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

世界最古の名前のある人

2024-07-23 | Weblog
 クシムと言う人がいました。
 現在確認できる名前が存在する世界最古の人間とされています。
 人間に名を付けるといった文化がいつ頃始まったのか分かりませんが、
 現在分かっている中で、
 名前の付いた人間としては、このクシムが最古とされています。
 このクシムについては、諸説がありますが、
 古代BC 3400年~BC3000年位に生存したシュメール人だったと考えられています。
 古代メソポタミア文明の18枚の粘土板から確認され、
 取引を管理していた人物、会計士と推測されています。
 性別は不明ですが、多分男性だったと考えられています。

 シュメールには、シュメール王名表と呼ばれる王の名前を記した粘土板があります。
 王名表はウル第3王朝時代(BC2112年~BC2004年)に
 成立したと考えられています。
 この王名表の第1番目には、エリドゥ王アルリムと言う王が書かれていますが、
 その在位は、28800年間に及ぶとされていて、史実とは考えられません。
 王名表には100人を超える王の名前が記されていますが、
 近年の考古学上の発見によって実在が確認された
 王名表中の最古の年代の人物はキシュ王エンメバラゲシであり、
 彼の名はギルガメシュ叙事詩にも登場しています。
 エンメバラゲシは、古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代の
 キシュ第1王朝の伝説的な王です。
 実際の彼の在位は紀元前2800年頃であったと推定されています。
 従って、クシムの方が古い訳です。

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菅江真澄と三内丸山遺跡

2024-07-07 | Weblog
 先日、青森県の三内丸山遺跡に行きました。
 その資料館に、菅江真澄が描いた土器と似ている縄文式土器の展示がありました。
 それを見て、初めて三内丸山遺跡と菅江真澄の関係を知りました。

 菅江真澄は、江戸時代後期の旅行家で本草学者です。
 三河国の生まれですが、1783年(天明3年)郷里を旅立ち、
 信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅しています。
 多くの紀行文や素描本を綴っています。
 東北地方に行くと、各地で菅江真澄の名を見ますが、
 三内丸山遺跡で見るとは思いませんでした。

 三内丸山遺跡は江戸時代からその存在が知られていました。
 文献上最初に遺跡の存在が出て来るのは、「永禄日記」です。
 この本は、浪岡城主北畠氏の後裔、山崎氏の家記で、
 「山崎記」或いは単に「記録」などと題されて二百年にわたり
 代々書き伝えられていましたが、損傷が多くなり、
 1763年(宝暦10年)に、山崎立朴によって整理・編纂一書としたものです。
 書かれている内容は、物価、天候、天変地異から政治まで、多方面に亘っています。
 この日記の元和9年(1623年)1月2日に。
 当地で数多くの土偶と思われる遺物が発見された事が記録されています。

 菅江真澄が初めて三内丸山遺跡を訪れたのは、
 寛政8年(1796年)4月14日の事で、
 当時の三内は周辺でも聞こえる桜の名所だった事から、花見に出掛けました。
 この年に著した『栖家能山』の中で、三内の地を訪れ、
 「此村の古堰の崩れより、縄形、布形の古き瓦、
  あるいは甕の破れたらんやうな形をなせるものを、掘り得しを見き。
  おもふに、人の顔、仮面なとのかたちせしものあり、
  はた頸鎧(みかへのよろい)に似たるものあり、
  卒堵浜蒼杜に近き三内の村は古名寒苗の里也。」と記録し、
 土器の口縁部や土偶の胴部のスケッチを残しています。
 また、1798(寛政10年)年に著した『追柯呂能通度(つがろのつと)』では、
 「寒苗の里より、みかべのよろひなすもの、あるいははにわなすもの…」と
 花牧(黒石市花巻)で「おなじさまなるものほりいでし」として、
 三内と花巻出土の両者を対比しています。

 その後、本格的な調査は、新しい県営野球場を建設する事前調査として
 1992年から行われました。
 その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、
 1994年には直径約1mの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられました。
 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、
 遺跡の保存を決定しました。
 
コメント (2)
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