天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

日本の人口

2012-09-22 | Weblog
 5年ほど前、上智大学の教授の鬼頭宏さんの
 「人口から読む日本の歴史」を読みました。
 その中に、縄文時代からの日本の人口を推計した表があったので、
 メモしておきます。

 縄文早期   8100B.P.      20.1千人
 縄文前期   5200B.P.      105.5千人
 縄文中期   4300B.P.      261.3千人
 縄文後期   3300B.P.      160.3千人
 縄文晩期   2900B.P. 75.8千人
 弥生時代   1800B.P. 594.9千人
 奈良時代 725 4,512.2千人
 平安時代初期   800        5,506.2千人
 平安時代前期   900        6,441.4千人
 平安時代末期 1150        6,836.9千人
 慶長5年 1600         12,273.0千人
 享保6年 1721         31,278.5千人
 寛延3年 1750         31,010.8千人
 宝暦6年 1756        31,282.5千人
 天明6年 1786        30,103.8千人
 寛政4年 1792         29,869.7千人
 寛政10年 1798        30,565.2千人
 文化元年 1804         30,746.4千人
 文政5年 1822         31,913.5千人
 文政11年 1828         32,625.8千人
 天保5年 1834         32,476.7千人
 天保11年 1840         31,102.1千人
 弘化3年 1846         32,297.2千人
 明治6年 1873         33,300.7千人
 明治13年 1880         35,958.1千人
 明治23年 1890         41,310.3千人
 明治33年 1900         46,540.6千人
 大正9年 1920         55,963.1千人
 昭和25年 1950         83,898.4千人
 昭和50年 1975        111,939.4千人
 平成7年 1995        125,570.2千人
2025        120,913.0千人
2050        100,496.0千人
2075         67,336.0千人

 ここで、BP (Before Present)の表記は、放射性炭素年代の事で、
 大気圏内核実験による放射線の影響を余り受けていない
 1950年を起点としています。

 この数字を眺めているだけで、様々なことが思い浮かびます。
 この本は、本当に良い本だと思います。
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宮武外骨

2012-09-06 | Weblog
 宮武外骨(みやたけ がいこつ)を御存知でしょうか?
 僕は、戦前の日本を代表する奇人だったと思っています。

 彼は、1867年2月22日(慶応3年1月18日)、
 現在の香川県綾歌郡綾川町小野の庄屋宮武家の四男として生まれます。
 幼名は亀四郎です。
 「外骨」とは一見すると号のようですが、戸籍上の本名です。
 亀四郎の亀は「外骨内肉」の動物であることから、
 19歳の時に自ら正式に改名したものです。
 役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などと
 何度も言われるのが癪だと言って、
 「是本名也」と彫った印鑑を用いたというエピソードがあります。
 1955年(昭和30年)に亡くなりますが、
 晩年には、「外骨」の読みを「とぼね」に改めています。

 彼は、反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して、
 政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けました。
 1889年、「頓智協会雑誌」で大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ、
 禁錮3年の実刑判決を受けます。
 その後も、活発な権力批判を行い、検挙投獄は数回に及びました。
 雑誌は数多く創刊しますが、比較的短命なものが多く、
 1号のみの廃刊誌は実に17を数えるとの事です。

 外骨の出版した刊行物の中でももっとも有名なのが「滑稽新聞」です。
 1901年に大阪で創刊され、時事批評だけでなく
 下世話な世相の話題まで扱い、一般大衆に人気を博し、
 最盛期の部数は8万部で、この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きでした。

 しかし、度重なる官憲の圧力から、売れ行きは好調でしたが、
 1908年10月、173号を「自殺号」として発行した上で廃刊します。
 しかし翌月には「大阪滑稽新聞」を創刊して
 事実上の後継誌とする辺りが、外骨の面目躍如であると思います。
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