天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

シェイクスピアとセルバンテス

2013-01-26 | Weblog
 ウィリアム・シェイクスピアは、4大悲劇などで知られる、
 イギリス文学史上最高の劇作家です。
 1564年4月26日、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの生れ、
 1616年4月23日に亡くなったとされています。

 ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラは、1547年9月29日に生まれた、
 小説「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」の作者として知られる
 スペインの小説家です。
 1616年4月23日に亡くなったとされています。

 二人の死亡年月日が同じである事に気が付かれたかと思います。
 では、本当に同じ日に亡くなったのかと言うと、それは間違いになります。
 当時のイギリスとスペインで、使っていた暦が異なるのです。

 当時のキリスト教社会では、ユリウス・カエサルによって制定され、
 紀元前45年1月1日から実施されていた、ユリウス暦が使われていました。
 しかしながら、実際の季節との誤差が大きくなって来たため、
 一部を修正した暦を、ローマ教皇グレゴリオ13世が定めて
 1582年2月24日に発布し、同年10月4日(木曜)の翌日を、
 10月15日(金曜)としました。
 しかしながら、新暦への切り替えは、各国の事情によって一斉ではなく、
 スペインは1582年10月15日でしたが、
 イギリス国教会が優勢で、カトリック教会の影響が及ばなかったイギリスでは、
 導入は、1752年9月14日の事になりました。

 シェイクスピアの死亡日は、グレゴリオ暦では、1616年5月3日になります。
 したがって、二人の死亡日は10日ほどのずれがある事になります。
コメント (3)
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源融

2013-01-10 | Weblog
 源融(みなもとの とおる)は、822年(弘仁13年)、
 嵯峨天皇の12男として生まれます。
 源姓を賜って、臣籍に降下し、嵯峨源氏の祖となりました。
 嵯峨源氏は、1字名が伝統のようです。
 官位は、侍従、右衛門督、大納言などを歴任し、従一位左大臣に至ります。

 この源融は、紫式部の「源氏物語」の主人公の光源氏の
 実在モデルとする説があります。
 光源氏を巡っては、そのモデルが色々と詮索され、
 藤原道長や源高明、藤原実方、光孝天皇など多くの名が挙がっていますが、
 どうも、最近では源融が有力なようです。

 源融は、陸奥国塩釜の風景を模した庭を持つ、六条河原院を造営したと言われており、
 これを題材にして世阿弥は、能「融」を創作しています。
 この六条河原院は、現在東本願寺の所有となっていて、
 国の名勝に指定されている「渉成園」
 別名枳殻邸(きこくてい)と呼ばれる庭園があった場所だとされています。
 現在の渉成園の庭は石川丈山の作庭です。
 付近に今ものこる塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りとの事です。

 陽成天皇の譲位で皇位を巡る論争が起きた際、
 自分も皇胤の一人であると主張したが藤原基経に退けられたと、
 平安時代の歴史書、「大鏡」に記されています。
 また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、
 上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が「今昔物語」等に載っています。

 京都市の南に宇治市がありますが、
 宇治は、「源氏物語」の「宇治十帖」の舞台となった所です。
 平安時代初期から貴族の別荘がありましたが、融も別荘を有していました。
 融の別荘が、宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て、
 998年(長徳4年)関白藤原道長の別荘「宇治殿」となりました。
 1027年(万寿4年)、道長が没した後、
 その子の関白藤原頼通は1052年(永承7年)、宇治殿を寺に改めます。
 これが、10円銅貨に描かれている宇治の平等院の始まりです。
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