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作品に罪はない。(ときめき研究家)

2019-02-09 12:09:21 | ときめき研究家
新井浩文が逮捕され、彼の出演作品の扱いが議論を呼んでいる。

このブログには、以前にも「作品に罪はない」と書いてきた。

「酒井法子のCDが店頭から消える理由」
「飛鳥涼逮捕。しかし作品に罪はない。」

改めて私の意見を書くと、作者と作品は別物であって、どんな犯罪者であっても優れた作品を生み出す可能性はある。作品は作品として評価されるべきだ。
犯罪者に対する社会的制裁として、その後仕事が与えられないということは理解できるが、過去の作品まで抹殺されてしまうというのは筋道が通らない。世の中の誰からかもわからない批判を恐れて「事なかれ主義」でとりあえず自粛するといった風潮を憂慮する。

特に、俳優の場合は、全く罪のない共演者や制作スタッフなど多くの人々への影響が大きすぎる。
酒井法子や飛鳥涼だって、CHAGEはもちろん、作詞家、作曲者、編曲者、レコード会社などに影響はあったが、新井浩文の影響範囲はその数倍に及ぶだろう。彼は非常に多くの作品に出演している。本人への損害賠償云々という話も出ているが、お金で済む話ではない。そもそも根拠のない自粛による損失までは請求できないと思われる。

何より、映画やドラマは、その制作時にその人たちでしか作りえなかった一期一会のものであって、それは制作に携わった全員の共有物である。そのうちたった一人の、その後の不祥事によって、作品がお蔵入りになってしまうなどあってはならないことだ。
主役級でなければ、彼の出演場面をカットして放映する等の手段もありえるだろうが、それによって不自然になったり、意味がわからなくなったりして、少なからず作品としての価値は下がるだろう。

こういった正論(?)を言ってみても、「事なかれ主義」は根強く、しばらくは自粛が続くのだろう。しかしいずれ「ほとぼりが冷める」のもまたこの社会の常だ。多くの人の共有財産である作品は、いずれは世の中に戻ってきてほしい。

背景として、テレビに出ている人は人格も優れている、あるいは優れていなければならない、といった変な権威主義があるのではないか。もっと言えば、ドラマの中の人格と俳優の人格を無意識に同一視してしまう風潮もあるのではないか。私たちは視聴者として成熟しなければならない。

もちろん新井浩文個人の犯罪は許されるものではない。被害者には同情する。しっかり反省し、罪を償ってほしい。

新井浩文出演作品に関するブログ記事はこちら。どれも前田敦子との共演作品だ。
「ど根性ガエル」
「毒島ゆり子のせきらら日記」
「就活家族 きっとうまくいく」

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-03-13 07:59:51
薬物関係(あるいは誰もいない公園で裸になった、など)の逮捕者に関してはご指摘の通りでしょうが、今回のように明確な被害者がいる犯罪の場合は被害者感情にも配慮しなくてはならないのでは?
(今回被害に遭われた本人だけでなく、同様の事件の被害者・関係者含む)
薬物関係者の過去の作品のように「ほとぼりが冷めたから」と解禁されるようなこともないでしょう。
前田敦子さんのファンなので大変心苦しいですが、彼との過去の共演作については、手持ちのDVD以外では二度と見ることができないと思っています。
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難しい問題ですね。 (ときめき研究家)
2019-04-28 09:44:02
コメントありがとうございます。

おっしゃる通り、直接的な被害者がいる犯罪とそうでない犯罪では、考慮すべき点が異なるのだと思います。
薬物使用も、マクロの視点で見れば、薬物の非合法流通に加担することで将来薬物中毒者(被害者)を生み出すという罪でもあるでしょう。

「作品に罪はない」「文化的創造物は多くの人々の共同制作物」という視点と、社会的制裁、被害者感情への配慮といった視点と、そして時間の経過という要素の中で、均衡を取って行くのだと思います。

その後発生したピエール瀧出演の『麻雀放浪記2020』が予定通り公開されたのは、一石を投じたもので、私は共感しました。まだ観に行っていませんが。
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