映画「超能力研究部の3人」感想、スナックのシーンも嫌い(ナッキー)
秋元真夏の演技力が向上するシーンをとったという演出のスーパーのシーンも演技力が向上しておらず破綻していたし、
秋元真夏のマネージャーが「キスシーンをとってはならない」と、映画監督にたてつき、部下に「何故連絡しなかった」となじるシーンもくだらないと感じたし、
ときめき研究家さんの感想「今どの役柄なのか時々混乱して訳が分からなくなっている」とは正反対に、映画の最初から最後まで私は、
虚構として見せているシーン
現実として見せたいシーン
脚本がないと思わせたいシーン
を明確に区別することができて、「お客を混乱させようとしているシーンきたけど、分類はこれ」と、たちまちに頭の中で整理できてしまった。
おそらく、混乱した観客は映画を楽しめて、混乱せずに作り手の意図が見えてしまう観客には、こんなにつまらない映画はなかった。
「アイドル映画は、つまらなくても、アイドルが輝いていればよい。」というテーゼの観点からも、評価は低い。
撮影休日に海に行くシーンは、アイドルらしくてよかったが、映画を台無しにしたのは、その前後のスナックのシーン。
秋元真夏が母の店でバイトしているところに、生田と橋本がくる設定なのだが、映像が暗くて、みすぼらしくて、大学生時代に見た昭和のポルノ映画のようだった。
「アイドルの輝く姿を見たい」私にとって、アイドルをわざと汚くとったようなあのシーンは幻滅。
映画の演出としては、スナックでの会話だからこそ、演技力があるという役の生田は、演技力がないという役の秋元真夏の「役に入り込めばいいのではないか」というアドバイスに、「あんたになんか言われたくない」という怒りが自然に(ガチに)見えるという効果を狙ったのだろう。
演出は破綻していても、アイドルが美しく可愛く輝いて見えていればよいという、アイドル至上主義のナッキーとしては、耐えられないシーンであった。
ひどい映画に出演を強制された乃木坂46に同情して、これまで以上に応援したくなった。ナッキー
演出が、否定的な評価の他の作品を想起させて失敗しているのが、映画「超能力研究部の3人」だとしたら、その逆は次の某グラビアアイドルの写真。
秋元真夏の演技力が向上するシーンをとったという演出のスーパーのシーンも演技力が向上しておらず破綻していたし、
秋元真夏のマネージャーが「キスシーンをとってはならない」と、映画監督にたてつき、部下に「何故連絡しなかった」となじるシーンもくだらないと感じたし、
ときめき研究家さんの感想「今どの役柄なのか時々混乱して訳が分からなくなっている」とは正反対に、映画の最初から最後まで私は、
虚構として見せているシーン
現実として見せたいシーン
脚本がないと思わせたいシーン
を明確に区別することができて、「お客を混乱させようとしているシーンきたけど、分類はこれ」と、たちまちに頭の中で整理できてしまった。
おそらく、混乱した観客は映画を楽しめて、混乱せずに作り手の意図が見えてしまう観客には、こんなにつまらない映画はなかった。
「アイドル映画は、つまらなくても、アイドルが輝いていればよい。」というテーゼの観点からも、評価は低い。
撮影休日に海に行くシーンは、アイドルらしくてよかったが、映画を台無しにしたのは、その前後のスナックのシーン。
秋元真夏が母の店でバイトしているところに、生田と橋本がくる設定なのだが、映像が暗くて、みすぼらしくて、大学生時代に見た昭和のポルノ映画のようだった。
「アイドルの輝く姿を見たい」私にとって、アイドルをわざと汚くとったようなあのシーンは幻滅。
映画の演出としては、スナックでの会話だからこそ、演技力があるという役の生田は、演技力がないという役の秋元真夏の「役に入り込めばいいのではないか」というアドバイスに、「あんたになんか言われたくない」という怒りが自然に(ガチに)見えるという効果を狙ったのだろう。
演出は破綻していても、アイドルが美しく可愛く輝いて見えていればよいという、アイドル至上主義のナッキーとしては、耐えられないシーンであった。
ひどい映画に出演を強制された乃木坂46に同情して、これまで以上に応援したくなった。ナッキー
演出が、否定的な評価の他の作品を想起させて失敗しているのが、映画「超能力研究部の3人」だとしたら、その逆は次の某グラビアアイドルの写真。
