最後の平和

2016年02月06日 | 歴史を尋ねる
 清朝以来、満州というのは、遼寧、吉林、黒竜江の東三省のことであった。関東軍は昭和7年中に、東三省ほぼ全域を平定したが、長城の北にはまだ湯玉麟軍閥の支配していた熱河省があった。関東軍が満州国の国防について最も関心をもったのは、支那との国境地帯、北支、内蒙古の地域であった。北支に蟠踞している張学良軍が、満州国の治安を乱す原動力であることは明らかであったが、もしソ連の勢力が外蒙古を通じて支那共産軍の勢力を利用して、北支方面に進出してくる場合には、満州国は完全にソ連によって包囲され、支那はソ連の勢力下におかれるようになる。この地域を満州国に対して、敵意を持たぬ者の勢力に委ねるように工作せねばならない、ということで関東軍は満州国の建設とともに北支内蒙の工作に乗り出した。さらに封鎖経済の世界的風潮に対抗するために、国防資源の自給自足を実現するため、満州のみにて足るかとの関東軍の質問に対し、満鉄調査部は到底満州だけの資源をもってしては足らず、北支の資源開発は、これがために絶対必要である、との意見を具申した。

 日本は国際連盟の場を強硬手段で乗り切ろうとした。リットン報告書を審議する国際連盟理事会では日本代表松岡洋右は事務総長に「日本は連盟の行動や言論に不満な場合は脱退する」という方針を伝えくぎを刺した。結局理事会では日中当事国だけが意見を戦わすにとどまった。結局十九人委員会の審議に付され、12月6日から特別総会の討論に委ねられた。総会で目立ったのは小国に発言だった。自衛の名にかりて侵略するようなことは断じて許すべきでない、報告書の処理は連盟の死活にかかわると主張した。スペイン、チェコなど四国の決議案は否決されたが、十九人委員会では英国と弱小国との意見がかみ合わずクリスマス休暇に入った。こうしたデットロックを打破したのは米国だった、と蒋介石は言う。米国ではこの11月、大統領選挙が行われ、32代大統領に民主党のフランクリン・ルーズベルトが当選(翌年3月就任)。ルーズベルトは、フーバー大統領の極東政策を踏襲し、総会議長イーマンス(ベルギー代表)に「米国は現在、日本を制する力は持っていない。しかし、決して日本の力に屈することはないであろう」と。ちょうど日本軍が山海関を占領したというニュースが伝わった矢先であった。

 山海関は万里の長城が渤海に落ち込む東端にあり、瀋陽と北平(北京)の両大都市のほぼ中間に位置する。万里の長城は北方の匈奴の侵略を防ぎ中華民族を守ってきた砦であり、なかでも山海関は、天下第一関と呼ばれる攻防の関門である。関内、関外という地域の通称も、この山海関を境に分けられていた。連盟がクリスマス休暇に入っていた昭和8年(1933)1月1日、関東軍は山海関を攻撃、3日には奪取。このニュースが伝えられて、国際連盟の空気は一変、英国の対日態度も変わり、ルーズベルトの方針を支持した。国際連盟特別一九人委員会は、ついに日本との調停を打ち切り、総会報告書案を審議可決、臨時総会を開催するよう要請、2月24日総会の採決に持ち込まれ、採決に敗れた直後松岡は手短に声明を発表、最後に日本語で「さようなら」と結んで議場から退場した。
 関東軍は熱河侵攻作戦を2月17日の閣議で決定、松岡が連盟を退出する前日の2月23日、一斉に軍事行動に入った。「熱河省は満州国の一部であり、熱河省の治安維持は満州国の国内問題である」と。その後も長城線を挟んで戦闘が続いたが、蒋介石の国民党軍は第一目標を掃共におき、関東軍との衝突を限定する用意があり、北京では英国公使が日中停戦を斡旋した。また5月19日ルーズベルト大統領が極東の平和回復を要望する声明を発表した。5月31日、関東軍の岡村寧次参謀副長と北京の軍事委員会総参議熊斌との間に塘沽停戦協定が調印された。内容は、長城沿いの南に緩衝地帯として非武装地帯を設け、日中両軍はそこから撤退することであった。

 戦後、岡村は回想している。「塘沽停戦協定は、満州事変から大東亜戦争にわたる長期のわが対外戦における最も重要な境界点であったと思う。この辺で対外積極策を中止しておけばよかった。いやおくべきであった」 この時点では、日中双方ともこれ以上の軍事衝突を望まないという意味で、ある種の均衡が達成された。その結果、満州国は既成事実となり、将来にわたって満州の国境線における日中衝突の可能性は排除された。
 塘沽停戦協定で中国は決して満州国を認めたわけではない。蒋介石の考えは「安内攘外」であった。まず国内を固めてから外国の侵略を打ち払う、とすれば統一達成後の中国がいずれは満蒙回復を図ることは必然。ここで岡崎氏は仮定のコメントをする。歴史的事実としては1949年に共産党による統一中国が成立する。もし日本が華北に進出していなければ、国共合作、統一戦線方式達成、国民党の弱体化の過程が共産党の計算通りにいったかどうかわからない。仮に国民党の下で統一が達成されても、日本の軍事力が保持されていれば、軍事的対決はずっと先のことになっただろう。とすると塘沽停戦協定以後日本が長城線にとどまっていれば、満州の国境線はほぼ二世代は安定した可能性がある、と。いずれにしても、支那事変まで四年あまり、極東には比較的平和な時期が訪れた。