「大事を化して、小事とし、・・・」

2016年02月09日 | 歴史を尋ねる
 塘沽(タンクー)停戦協定によって、満州の国境線は事実上確定し、東アジアには暫時の平和が訪れた。しかし、この協定によって満州国境沿いに、中国側の軍事力の及ばない空白地帯が出来てしまった。平津(北京、天津)の地には、中国伝来の権謀術策を身につけた失意の政客や軍閥の片割れが暗躍し、満州事変の功績に洩れた日本の軍人らが一旗揚げようと活動をつづけた、と岡崎久彦氏は記述する。そして、伊藤正徳(時事新報記者、のち共同通信社理事長、日本新聞協会理事長、時事新報社長を歴任)「軍閥興亡史」の挿話を紹介する。昭和11年秋、戦争指導課長であった石原莞爾は、関東軍が満州建国後も内蒙古や華北に進出しようとしているのを止めようとして、何度も不拡大を命令したが、関東軍は云うことを聞かない。そこで自ら長春に乗り込んで昔の部下たちに訓示をした。訓示が終ると、武藤章は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。武藤は二・二六事件の時は石原と共に断固討伐を主張し、「陸軍に武藤あり」と言われたほどの人材であり、昭和16年の日米交渉では軍務局長として、体を張って日米間の妥協達成のために努力した。しかし支那事変に至る過程では、石原の意に反して常に積極的進出派であった。武藤ほどの人物にしてそうであったという一事が、当時の軍内の大勢に動かしがたいものがあった、と。伊藤正徳は「かつて統制を破って名を成したものが、のちに自ら統制者となってこれを強いようとしても、人はもはやそれに従わない。下剋上の弊は、かつてそれを犯したものを厳罰にして見本を見せない限り根絶することはない。いわんや、その犯人が出世栄達するにおいてをやである」と慨嘆している。

 昭和10年6月、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定が結ばれ、日本軍の勢力は河北、チャハル方面に大きく拡大された。その後も軍は地方当局に次々と強硬な要求を出して、南京政府の影響力を排除し、反日運動を抑制させようとして、11月冀東政権を成立させた。冀とは河北省の別名で、塘沽協定で取り決めた河北省東部の非武装地帯をそのまま南京政府から独立した政府とさせようとした。ここでは南京側も政治的妥協を計って、河北省とチャハル省を管轄する冀察政務委員会を設け、この両省に南京政府とはある程度距離をおいた日中間の緩衝的政権を作ろうとした。しかし、翌昭和11年1月、北支処理要綱は北支に自治区域を作ることをはっきりと政策目標と掲げ、満州建国と同じ功名を求めている軍の華北分離工作にお墨付きを与える形となった。

 こうした状況にもかかわらず、中国側が隠忍自重して妥協を重ねたのは、蒋介石が安内攘外の方針を堅持して掃共作戦に専念添田からであり、その間の対日外交は汪兆銘行政委員長(総理)に委ねられた。汪兆銘は、日露戦争時代の日本の情熱に打たれて感奮興起し、親日派になった数多いアジア人の世代の一人であった。明治37年、広東政府の官費留学生として来日、日露戦争の真最中であった。当時東京にいた一万を超す中国人は心から日本を支持した。日中両国は相和することが出来ないという説をなす者があるが、その度に東京で過ごした当時を思い出すと後日の講演で語っていた。信頼し合えば、いかなる困難も克服できるという東洋思想を最後まで捨てなかった人だった。しかし、日本帝国主義を憎悪の目でしか見ない澎湃たる中国ナショナリズム、目的のために手段を選ばない共産主義イデオロギー、そいて単純な拡張主義を信じて上司の命令をも無視する現地日本軍人の独断専行の前には、汪兆銘の夢見た東洋的相互理解の世界は実現するすべもなかった、とは岡崎氏のコメント。
 
 蒋介石は、1928年(昭和3)北伐に成功したが、国民党の中では若輩であり、孫文以来の革命派の実力者たちは容易に蒋介石の下風につこうとしなかった。なかでも汪兆銘は孫文が最も信頼した部下であり、孫文の「政治遺嘱」と呼ばれる遺書は、汪が孫文の口述を筆記したとも、もともと汪たちがつくって孫文が了承したとも云われている。蒋介石が北上したあとも広東には汪を首班とする広東政府が蒋と対立していたが、満州事変後、大同団結ということで南京、広東両政府は合併し、汪が行政院長(首相)、広東派の陳友仁が外相となり、蒋介石は軍の実権を握りつつも役職は単なる軍事委員長にとどまった。
 日本との協調は、汪だけでなく蒋の信念でもあった。上村伸一(昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。満州で敗戦を迎え、その後のシベリアで抑留された。復員後外務省に復帰)自身に蒋介石が語ったところによれば、蒋は「大事を化して、小事とし、小事を化して、無事とする」ことを目標とし、お互いに事を荒立てず自ずと事なきに至るのを望んだという。ここで大事を満州と考えると蒋介石の日中関係打開構想も自ずから見えてくる。しかし、その後の日本の対中政策は、事態の拡大か不拡大かがその都度致命的な争点となるたびに、出先の強硬方針がつねに勝って、小事をことごとく大事と化してしまっている、と。

 昭和10年初頭、広田外相の議会外交演説がきっかけとなって、その年の秋、広田三原則が外務省と陸海両省の間で合意された。その内容は、満州国を中国に承認されなくとも事実上の国境地域の関係を調整し、中国には排日運動を取り締らせ、共産主義の脅威に対しては日中協力するということで、中国側からすれば厳しい内容であったが、蒋、汪としては話し合いに乗れないものではなかった。しかし、如何に政府首脳が合意した政策でも出先の軍の独走を抑えられず、すでにその前に軍の華北分離工作は着々と進んでいた。この間の汪兆銘の苦衷は真に同情に値すると岡崎氏。6月に「邦交敦睦令」を公布して、友邦を挑発する者を厳罰に処するなど、日中国交調整に努力するが、政府内外から猛烈な反対と攻撃を受けた。汪はのちに、漢奸として対日迎合を非難されるが、反日運動が燃え上がるなかで、自らの生命の危険を顧みず行動した。1935年11月、国民党六中全会に際して、刺客は汪に銃弾を連写、汪は従容として三弾を受けたという。幸い急所を外れて一命をとりとめたが、対日工作の右腕と頼んでいた唐有壬も12月暗殺され、汪は日中国交調整はもはや終焉を告げたと記していた。