支那(日華)事変への途 2

2016年02月19日 | 歴史を尋ねる
 一方、蒋介石の最大の難題は共産軍の問題であったと、上村氏。江西省の共産軍は蒋の執拗な攻撃に耐えられなくなり、江西を捨てて西遷の途についたので、蒋介石はこれの殲滅に努力を集中し、北方における日本との衝突を回避していた。南京政府がたやすく南京勢力の華北撤退を承認した一つの理由はそこにあった。日本軍はそのあとに親日政権を樹立しようとしたが、これと思う中国人はいずれも尻込みするので、結局、蒋介石から華北の警備を任せられた南京傍系の宋哲元を口説き、無理押しして冀察政務委員会を設立させた。しかし宋哲元は中国ナショナリズムに逆らう気はなく、南京政府と日本との緩衝となる以上に進むつもりはない。また宋哲元麾下の第二十九軍はもともと赤い軍閥と言われた馮玉祥系統で、抗日色に富んでいる。それが華北に進駐して日本軍と接触し、日本軍の横暴に、いよいよ抗日的となり、日本軍との関係は尖鋭化していった。第二十九軍の首脳部主流派は、日本との関係維持に努めるが、抗日的言辞を弄する反主流派もあり、将兵は抗日的なので、首脳部の統制が利かず、そこに危険性があった。

 他方江西省を追われて西遷した共産軍は、1935年(昭和10)10月、華北に近い陝西省に入り、そこを拠点として多数の秘密工作員を華北に潜入させ、抗日宣伝に努めると共に、特に第二十九軍将兵の抗日精神を扇動することに力を注いだ。1935年8月、共産軍は抗日救国宣言(八・一宣言)を発し、一切の内争を停止して抗日のために一致団結すべしと全国に呼びかけ、これを共産党の標語とした。こうして抗日気運が高まり、11月親日派の中心人物汪兆銘が狙撃され、12月唐有壬前外交部次長が暗殺された。更に1936年(昭和11)日本では2・26事件が発生した年であるが、12月張学良による蒋介石監禁という西安事件が起ったが、これは日華関係の上に決定的ともいうべき大事件であった。蒋介石は解放されたが、蒋の心境には大きな変化が起り、事件以後の蒋介石は、共産党の主張する一致抗日に傾くようになった。これは先鋭化しつつあった日華関係に対する危険信号であった。
 そういう情勢の下にあった翌年(1937年)7月、北平(北京)郊外の盧溝橋において、ごく些細なことから、日華両軍関に小競り合いが発生した。これまで小部隊の小競り合いは珍しいことではなく、これまでは大事に至らず解決するのを常としたが、こんどは情勢が異なった。抗日気運が高まった中で、二十九軍の将兵は首脳部からの撤収命令が出ても現場を動かず、日本軍との対立が尖鋭化していった。そこには共産党工作員などの将兵に対する扇動や挑発などもあった。二十九軍の現場の将兵も動かず、日本軍も軍の名誉にかけて先に退くことが出来ず、ことは面倒になった。日華双方とも、国内の強硬論が勢いを得てい来る。日本ではすでに7月11日、内地師団の動員を決定した。蒋介石も万一に備えると称して中央軍に北上を命じた。日本が出兵すれば、全面戦争になることは必至、しかし日本の強硬派は、出兵すれば、中国側が驚いて屈服すると考えていた。そういう認識不足の強硬派が日本の大勢を制するようになり、また蒋介石の方も、これまでのような柔軟性を失っていたから、日華双方が互いに刺激し合って尖鋭化、遂に両国軍が正面衝突をみるに至った。

 ただ正面衝突といっても、日本軍が平津地域を占領し、二十九軍は戦わずに南方に撤退し、南京中央軍は遥か南方に留まったままで動かず、派遣された日本軍も華北に到着しつつある状態で、本格的衝突には至っていない。この間隙を利用して東京の陸海外務の穏健派は軍首脳部を説得して、和平による収拾案を決定し、まず民間人をして南京の反応を探らせることにした。これが船津工作であった。しかし船津が上海に赴き、南京外交部の高宗武亜州司長と会談したその日に、大山事件(第二次上海事変)が起こり、せっかくの和平構想も実を結ぶに至らなかった。しかも上海における日華の衝突は、日華双方の強硬論を煽ることとなり、大勢は全面戦争へと進むに至った。それにもかかわらず、軍の穏健派は、なお和平による事態収拾の考えを捨てなかった。日本の国力及び兵力から見、中国に漲る抗日意識の高揚から見て、中国との全面戦争を続けることは、徒に日本の国力を消耗するだけで、勝つ見込みはないからであった。
 1937年10月22日の閣議は、日華和平に関する第三国の斡旋を受けることを決定した。軍が第三国の斡旋による和平に踏み切った裏には、杭州湾上陸作戦による上海の救援に自信を得たということがあった。中国軍を潰走させ、それを背景に和平交渉を進め、事変を平和的手段で収拾するという構想であった。だが、日本軍の上陸作戦により、上海包囲の中国軍は側面を突かれ、慌てて南京に向って潰走し出した。そこで戦闘を打ち切れば和平も可能であった。しかし日本軍の最大の欠陥は統制が利かないことである。中国軍が潰走して南京に向かうと、上陸軍と上海派遣軍とは二路に分かれて中国軍を急迫し、中央の停止命令をきかず、遂に12月13日、南京に突入してしまった。しかもその翌日14日、北京に中華民国臨時政府が樹立された。これは明らかに日本の軍強硬派ぼ策謀であった。強硬派は自分の思うように中国を料理する積りだから、和平には反対であった。だから和平ぶち壊しの為に南京を占領し、北京に蒋介石政権に対立する政権を樹立したのだった。