脇道 ソ連コミンテルンと中国革命

2016年02月15日 | 歴史を尋ねる
 日本の外交史について、内外に多数の著作が刊行されているが、その多くは断片的で総合的一貫性を欠き、資料的にも不備、不正確で、イデオロギー的に偏向しているものも少なくなく、これを是正し外交史研究に寄与するためにと、昭和45年より鹿島平和研究所より日本外交史全33巻、別巻5冊が刊行されている。外交史の正しい理解なくしては、正しい外交政策の樹立はあり得ない、と。日支事変前後の時代担当は上村伸一(1896-1983)氏。1921年外務省に入り、カナダ、ソビエト連邦、上海、南京、ロンドン在勤、昭和9~13年本省東亜局第一課長、昭和17~20年本省政務局長、続いて在独公使となり、赴任直後終戦、ソ連軍によりシベリア抑留。戦後在米公使、トルコ大使歴任とある。前置きはこのぐらいにして、革命後のソ連と中国の関わりについて、上村氏の著書を参考にしたい。

 第一次大戦末期に成立したソ連共産政府は、史上初めての共産主義政権だったので、その実態がつかみかねた上に、共産革命の企図はドイツその他の隣国にも波及したので、これを警戒してソビエト革命の干渉、封じ込め政策へと進展し、大戦で疲弊していたソ連は、窮迫の度を増した。レーニンは十月革命(1917)の翌年凶漢に狙撃され1924年1月静養先で死去した。共産党書記長だったスターリンはトロッキーとの峻烈な権力闘争に勝利し、スターリン独裁体制の基礎が築かれた。スターリンはソ連の直面する内外の困難な情勢に対処するため、極めて柔軟な政策を採り、国内においても新経済政策(ネップ)を採用、ある程度資本主義経済の制度を温存し、大戦と革命とにより荒廃した国内経済の建直しと民心の安定を図る過渡的便法をとった。当時を上村氏は振り返って、果物を含む食料品は豊富で値段を安く、街のレストランや商店なども私営が多かったから、サービスもよく快適な生活だったという。その後、社会主義経済への移行準備が進められ、企業統制などが行われ自由の抑制で前途の苦難が感じられたと註を記す。対外的にも柔軟な政策を採り、経済開発のため資本主義国からの資本及び技術の導入も厭わなかった。日本に対しても、北樺太の石油、石炭利権やシベリアの森林利権、漁業利権なども許与していた。

 しかし一方でソ連はコミンテルンを結成して、世界共産化の準備を進めていた。レーニンが革命早々、「共産革命の将来は東方にある」と喝破し、植民地主義の桎梏に目覚めて来た東方民族に対する働きかけに努力を傾け、1920年「東方人民会議」を招集して植民地主義打倒、民族解放の狼煙をあげた。1921年1月モスクワにコミンテルン極東民族大会が開かれ、中国からは共産党系のほか国民党系も参加、「国民革命の発展と革命的ブルジョア民主主義との共同戦線の形成が重要視され、「人民戦線戦術」の萌芽を見せた。更に中国の影響が外蒙古にまで十分及んでない実情に着目、1921年7月モンゴル人民共和国の樹立を宣言させ、11月ソ蒙修好条約を締結、モンゴルは中国から独立してソ連の勢力下にはいった。そして中国本土では、中国共産党の結成援助に努力した。
 中国においては、1919年に起った五・四運動以前から、各地にマルクス主義の研究会が生まれ、共産主義熱が高まって来たが、この運動の進展に伴い、北京、上海、長沙などにおいて労働補習学校などを設立して労働者への組織化へと進んでいった。1920年、コミンテルン極東部長ヴォイチンスキーが中国に派遣され、陳独秀、劉少奇、李大らと会談、各地に共産主義グループがつくられた。1921年7月各地のグループを代表する毛沢東、董必武ら12名が上海に集まり、中国共産党第一次全国代表大会を開催、労働運動の推進に努力することを決議した。
 他方、中国に派遣されたヨッフェは孫文に近づいて幾度となく会談をかさね、孫文も革命に未だ前途の見込みの立たない現状で、ソ連の援助を得ることに前進、ヨッフェ・孫文共同声明となった。さらにコミンテルンは今度はボロディンを派遣して、国共合作実現を推進、1924年1月国民党一全大会において「連ソ、容共」の政策が正式に決定され、国民党中央執行委員24名の中には共産党の3人が入り、共産党員はその党籍を保持したままで国民党に入党、国民党及び政府の要職を占めるに至った。

 これより先、孫文はソ連の招待に応じ、1923年8月、ソ連の軍事事情研究のため蒋介石を首班とする視察団を派遣した。孫文は軍閥と提携して革命を達成する道を進んできたが、軍閥は全く頼りにならず、革命党は革命精神の充実した自己の軍隊を持つことが必要だとして、革命軍創設の意向を以て派遣した。蒋介石は滞ソ4カ月、ソ連の長所・短所をえぐり出して報告すると共に、軍官学校の創設も進言、黄埔軍官学校を革命軍基幹将校養成の方針で翌年設立された。校長の蒋介石は自ら率先して厳格な規律を実行し寝食を忘れて訓育に努めたので、卒業生の多くは、蒋介石をまたとない恩師と尊敬、後日蒋介石を支える勢力を形成した。
 1924年10月、孫文が客死し後継者争いが起ったが、4人の後継者の中で、汪兆銘と国民党軍を握っていた蒋介石が、崩壊の危機に瀕した国民党及び広東政府で大きな存在となっていった。国民党入りした共産党は国民党左派の協力を得て、広東の国民党党務は、事実上共産党書記長の陳独秀に握られ、共産党の勢力は抜き難いものとなった。国民党と共産党は、その根本思想において相容れないものであるにもかかわらず、共産党は国民党に内部に入り込むといういわゆるトロイの木馬戦術に出ていた。蒋介石も早くから気づいていたが、しかし孫文亡き後の蒋介石にとって最大の事業は北伐であったし、国民党内の意見もこれを支持した。
 1926年1月、汪兆銘は中央政治会議に対し、北伐決議案を提出し、満場一致で採択され、2月に入ると、蒋介石を国民党軍総司令に任命した。そして国民政府は、張作霖、呉佩孚が全国統一会議の開催を拒否したことを理由に、北伐宣言を発した。

 しかし広東の情勢は、形式的には国民党が主導権を握っているが、実質的には共産党及び国民党左派の勢力が優勢、それはソ連が背後に控えているからでもあった。先にも記したように広東の国民党党務は陳独秀が握っており、軍官学校の学生も左右両派に分かれ、共産党員の学生はひも付きで、学校内で浸透作戦に努めている、それに感化される学生も少なくなかった。蒋介石にとって、迂闊に北伐の途に上がると足許の広東が乗っ取られる虞があり、北伐に躊躇していた。そんな折広東粛清の機会を捉えて、蒋介石は間髪を入れず実力を発動しクーデターを敢行、広東の国民政府は蒋介石の影響下に置かれ、ここに蒋介石と共産党は敵対関係に入った。広東を逃れた共産党は、国民党左派と共に武漢に拠り、武漢国民政府を樹立して国共合作を継続したが、やがて武漢政府の国民党左派も、共産党の陰謀に気づき、1927年の夏、共産党を追放するに至った。その結果、共産党の領袖は各方面に散っていったが、毛沢東は井岡山に立て籠もり、共産党の育成に努めた。この間、蒋介石による共産党の討伐は執拗に進められたが、満州事変の勃発により共産軍討伐の手も緩められた。毛沢東は満州事変の機会を捉え、1931年11月7日、江西省瑞金に中国ソヴィエト政府を樹立して、自ら政府主席に就任した。