支那(日華)事変への途 3

2016年02月24日 | 歴史を尋ねる
 1937年(昭和12)12月、在華ドイツ大使トラウトマンは蒋介石と会見して日本の和平条件を伝えた。蒋はその条件に大体異存はない。しかし戦争を続けながらの和平交渉は成功するものではない。目下南京に向かっている日本軍の進撃を止めてほしい。まず停戦して、それから交渉に入ろうと言った。しかし日本軍は進撃を停止するどころか、南京に突入して暴虐の限りをつくすに至った。首都が蹂躙されては、蒋介石の面目は丸つぶれである。その上日本軍の強硬派は首都の占領に気を良くして、蒋の運命も極まったと称し、それが軍の大勢を制するに至った。その結果政府も軍の大勢に押し切られて、和平条件を苛酷に改め、これに対する蒋介石の回答が曖昧なのは、蒋の和平に対する誠意がない証拠だとして、翌1938年1月、「爾後国民政府を相手にせず」という有名な近衛声明を発するに至った。和平の放棄であった。

 しかし中国の戦意は少しも衰えず、日本も戦争によって中国を屈服させるだけの戦力もなく、国力を消耗するだけである。また北京に樹立した新政権に民心が靡く様子もなく、新政権による事態の自主的収拾も見込みはない。ここで、軍・政首脳部の和平派が再び台頭するに至った。近衛首相は再び和平に向かい、5月内閣を改造し、和平を強く主張する宇垣一成大将を外相に、また和平に賛成した板垣征四郎中将を陸相に迎えた。かくて宇垣は、香港を通じて国民政府との和平交渉に入り、交渉は順調に進展した。しかしこの和平交渉を阻害したのは、事態の自力収拾を目指す軍強硬派の動きであった。自力収拾派は、香港における和平交渉の開始を知るや、猛然と交渉の破壊に乗り出し、やがて彼らの主張が軍の大勢を制するに至った。近衛首相も板垣陸相も、ともに大勢順応主義だから、大勢が和平反対となればその方に靡く。宇垣は熱意を込めてその反省を求めても耳を貸さず、香港を通じての和平交渉は一歩も進められなくなった。

 そのころ軍の一部が謀略として進めた重慶の汪兆銘との連絡が進展し、汪の重慶脱出がほぼ確実視されるようになった。汪は一貫した和平論者であった。政府首脳部は汪を引き出すことにより重慶内部を撹乱し、それによって事態の打開を図ることになった。これが1938年(昭和13)7月の五相会議決定の「対支謀略」であった。他方、北京新政権の体制が進むにつれ、革新官僚の間には、新政権強化論が出て、新政権に消極的な外務省に、中国問題を任せてはおけない、「対支院」のような新機関を創設し、広く人材を集め、軍に協力すべしとの議論が強くなり、ついに政府は対支院設立案を五相会議に提出した。しかし宇垣外相は、これに絶対反対で、満州国においてさえ民心は政府に靡かず苦労している、まして中国本土を第二の満州国化しても、民心が離反して持ちこたえられない、反対に日本がつぶれるというのが外務省主流及び宇垣の見解であった。しかし五相会議や閣議も、「対支院」に賛成で、宇垣は全く孤立無援となり、和平交渉も進められなくなったので、宇垣は10月末外相を辞するに至った。その結果11月1日閣議は対支院(その後興亜院)の設置を決定した。日本は全く成功する見込みのない道を進み、破滅への道をたどるにいたったと上村氏。
 宇垣外相が辞任し、後任が決定するまでの間、近衛首相が兼任したが、その僅かな間に近衛兼任外相は軍の圧力に屈し、在独陸軍武官大島浩をドイツ大使に任命した。大島は枢軸同盟推進の急先鋒として知られていた。大島が大使になってからは、同盟締結の機運が急速に進み、日本はドイツを中心とする世界戦争に巻き込まれる運命のもとに置かれた、と。

 汪兆銘は日本との約束通り重慶を脱出して、まずはハノイに仮寓した。汪は中国人だから中国ナショナリズムを理解し、日本の傀儡とみられては国民が離反することを知っているので、日本の占領地域に立ち入るつもりはなかった。汪は自分が重慶を脱出すれば、自分の後を追って脱出する要人も少なくないい筈だし、雲南の竜南を始め広東、広西の軍閥も、反蒋の旗を掲げて自分を歓迎するものと踏んでいた。しかしその目算はすべてはずれ、汪に続いて重慶を脱出する要人もなければ、地方軍閥で汪を迎える者もなかった。そのうえ、汪の故郷であった広東は日本軍の占領するところとなり、そのうえハノイには重慶に刺客団が潜入して汪の命を狙い、フランス当局は汪に対して極めて冷淡で、ハノイが安住の地でないことがはっきりした。汪は身の置き所に窮し、万やむを得ず日本占領下の上海に至り、そのに居を定めた。そうなれば日本軍がすでに作り上げた各地政権を統合して南京政府を樹立、その頭に座った。かくて汪兆銘は中華民国国民政府を樹立し、重慶の国民政府と対立することになった。これは決して汪の意図したところでなかった。汪が危惧した通り、中国国民からは日本の傀儡政権と見られて民心は離反し、治安は乱れて日本軍の厄介になるほかなかった。汪政権の日本軍に頼る比重が増せば、それだけ日本の傀儡化も進み、中国国民から見放される、日本軍にとって、汪政権が負担になり、占領地の治安維持さえ思うにまかせない、蒋介石に対する積極作戦などできるはずもなく、長期持久戦にの蒋介石のペースにはまって、消耗を続けるだけになった。そこで日本では、またも和平論が出て、対蒋打診も行われたが、汪政権の存在が対蒋和平の障害となり、しかも日本としては一旦樹立した汪政権もそう易々と解消することも出来ず、汪政権樹立が日本の命取りとなった。ふーむ、ここまでくると、蒋介石に完全に足元を見られ、大きな撤退しか解決策はない。そしてそんな決断は誰も出来ないということか。

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