日朝の書契(外交文書)問題

2011年09月17日 | 歴史を尋ねる

 西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いた。この問題を石田徹氏は論文「明治初期日朝交渉における書契の問題」として掘り下げているので、問題の核心を探りたい。この文書(国書)は明治政府が政権交代を通知する文書で、結局明治8年まで朝鮮政府に受け取りを拒否されたままとなり、朝鮮が守ろうとした従来の交隣関係は、日本が日朝間にも適用しようとした万国公法的な価値観に基づく艦砲外交によって、新たな近隣関係のスタート(日朝修好条規)となった。これが日本の朝鮮侵略の端緒となったという日本人史家が多いのだが。

 倭寇禁圧を依頼してきた朝鮮との間で始まった対馬と朝鮮との交際(嘉吉条約1443年)は、通交船や貿易量を制限した貿易協定で、代りに歳賜米200石を李氏朝鮮から支給されることが決められた。その後中断時期があったものの、日朝貿易は対馬藩の財政に寄与したが、幕末貿易品目の減少で藩財政の負担を強いるものとなった。そして対馬藩は藩財政立て直しの一環として日朝外交の刷新を訴え続けていた。対馬が朝鮮に依存しなくてもすむよう、屈辱的な対応をしなくてすむよう、改めてほしいというものであった。明治政府が発した「王政御一新」の通告の命を受けた対馬藩は、日朝外交刷新のきっかけにと、書契作成に当たった。「宿弊一掃」「旧弊一洗」「対州私交の弊例更革」とは、今回の書契で、彼国の印を改めて朝議の上作成された新印を用い、軽蔑侮慢藩臣を以て我を待つの謬例を正し、旧来の国辱を雪いで、専ら国体国威を立てんと欲することであった。「此度の一挙」によって、これまで続いていた朝鮮からの経済的援助も中断され、財政的にさらに厳しくなることも承知の上で、対馬藩は書契問題の引き金を引いた。

 明治元年(1968年)12月18日対馬藩が釜山草梁倭館へ派遣した先問使川本九左衛門は朝鮮側担当官の安東晙に用件を伝えて書契を示した。内容は次の通り。「国内の時勢が一変して政権が皇室に帰したこと、それに伴って宗家当主である宗義達が旧勲によって昇叙、左近衛少将になったこと、朝廷からの命により宗氏が今後も日朝間の交隣の職を担うこと、今回朝廷から新たな印を賜ったので大修大差使の持参する書契にはその新印が押されていること、そしてこれまでの図書(朝鮮側の印)は、朝鮮側の厚誼によるものだったが、今回は朝廷の命によるものであり、「私を以て公を害する」ことはできないので了解してほしい」旨を告げた。朝鮮側はその書式や語句が前例にないことから受け取りを拒否し、膠着が始まった。こうした中で、明治2年9月外務省が太政官に宛てて出した伺い書がある。これまでの朝鮮国との交際は対馬藩宗家に委任して私交に流れ、対馬藩が日朝外交にこだわるのは朝鮮への経済的依存によるものとして、見直しを迫るもの、この時外務省が指向していた万国公法による外交関係の樹立を目指すべきだとした。しかし日朝外交の沿革・実態について知識がなく対馬藩抜きで交渉を進めることができないので、外務省自ら日朝外交の実態調査に乗り出す。佐田白茅を長とする調査団を派遣した。その報告書は、この図書は彼国の臣下に等しく、加えて歳賜米を貰うことは臣礼をとることになる、対馬が日朝両属しているような秩序ではなく、日本と朝鮮が一対一の関係を結ぶ秩序、つまり万国公法に基づく関係を主張した。対馬藩が訴えていた屈辱は、明治政府にとっても見逃しえない謬例であった。


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