小中華

2011年09月04日 | 歴史を尋ねる

李朝朝鮮は1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。太祖李成桂を助けて李氏朝鮮の建国に大きい功を立てた鄭道伝、趙俊などは、皆が朱子学の信奉者だった。彼らは儒学的な理想を新王朝に実現させようと、政治、宗教の指導理念に儒教を採択すると同時に、仏教を猛烈に排斥させた。李氏朝鮮では君主の進講をはじめとして、成均館、四学、郷校などの教育機関や科挙などにもその科目が採択され、国の政治は儒教政治のようになった。

 朝鮮は明の華夷朝貢体制から見れば夷狄に分類されるが、儒教文化の面では、中国と対等か、中国の次に行くものとして自負し、「華」と称した。自ら中華と同一視して、「小中華」と称し、明と一体化する一方、周辺国家の女真・日本・琉球を夷狄とみなした。これがいわゆる小中華意識である。この時期の朝鮮の国際観念と意識をよく示しているものとして、混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)がある。これは1402年(太宗2年)に製作された地図で、中国が世界の中心に位置し、朝鮮は右側にあって、面積が非常に拡大されて描かれている。これに比べ、日本や琉球は小さく書かれ、東南アジアは位置がおかしい。この図から見えることは、大中華・明、小中華・朝鮮、夷狄は女真(のちの清)、日本、琉球、禽獣は東南アジア、ヨーロッパ、アフリカ。そして女真と対馬を朝鮮の羈縻(きび)圏の中に編入し、彼らに朝貢秩序を遵守するよう強制した。さらに時代が進んで朝鮮の外交構想は、日本・琉球や中国東北地方の女真を羈縻交隣の対象として位置づけた。羈縻の羈は午の手綱、縻は牛の鼻綱のことをさし、羈縻政策(きびせいさく)とは中国の唐王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対してとった統御政策の呼称である。彼らがもともと有していた統治権を中華の政治構造における官吏であるという名目で行使させようとするものであった。

 日本の室町幕府は1403年、明の冊封体制に入り、1404年、国書を持参した日本国王使を朝鮮に派遣し、両国間に正式な国交が開かれた。日本からの使節を日本国王使、朝鮮から日本への使節を通信使といった。通信とは信義を持って通好するという意味で、外交儀礼上、対等国間で派遣される使節を指した。通信使が定例化し、儀礼体系化されたのは朝鮮時代後期、徳川幕府の時代であった。後期の日朝関係は朝鮮朝廷から日本の徳川幕府に派遣され、国書が交換される通信使行と、釜山の倭館で行われる対馬との通商貿易であった。

 1876年、日朝修好条規の締結以後、朝鮮朝廷は開化政策の推進過程で、どの国よりも日本との深い関係を持った。修好条規締結時に日本の全権大使黒田清隆が朝鮮の接見大臣に、日本側は今回正副大臣を派遣したことに対し、朝鮮側から回礼使を派遣するよう勧告した。これに対し朝鮮側は回礼の名分とともに日本の情勢と開化文物を探索するという実質的な動機を持って、修信使という使節団を派遣した。その後も派遣され前後4回実施された。この時期は朝鮮開化史の幕開けの時期に該当した。開化思想が形成され、開化自強政策が実施される中、開化派が政治勢力として浮上した時期でもあり、朝鮮の政策路線をめぐって、斥邪派との対立が鮮明になった。このとき日本側も汽船の提供もあり、使節の接遇も丁重であった。日本側は西欧列強の侵略に対応してアジアの連帯を図ろうという純粋な意図のほかに、明治日本の経済的・軍事的実力を見せて、朝鮮を開化政策に転換させ、清に対する日本の優位性の誇示があったのではないかと、河宇鳳著「朝鮮王朝時代の世界観と日本認識」の中で語っている。

 


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