日本は自衛の第一歩を踏み出した、アイケルバーガー中将

2020年08月17日 | 歴史を尋ねる

 日本の行く末は、歴史はアメリカ占領軍が決めている、それがポツダム宣言受諾の中身だった。その不思議な時代を児島襄は、「講和条約 戦後日米関係の起点」で丁寧に跡付けしている。文庫本で全12巻、日本の戦後体制がこうして決められたのか、知らないことづくめ、大変興味深いが、時間がかかる。対日講和条約の調印日は1951年(昭和26年9月8日)、このブログにとってはまだまだ先。日本の内政の歩みも見なくてはならないので、現段階でもどうしても外せない事柄を見届けて、日本自身の歩みに戻りたい。

 まずは神戸(朝鮮人学校)事件。事件の背景は、1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本教育基本法学校教育法に従わせるよう」に指令した。このころ在日朝鮮人の子供たちは、日本内地の教育により、朝鮮語の読み書きが充分にできなかったため、日本各地で国語講習会が開催され、文字と言葉を知ったものが先生となり、在日朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教えた。教材は独自に作成された。国語講習会は在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)事務所や工場跡地、地元の小学校校舎などを借りて開かれた。その後、国語講習会は朝鮮人学校に改組され、学校は全国に500数十校、生徒数は6万余人を数えた。1948年1月24日文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した(朝鮮学校閉鎖令)。

 講和後の日本の安全保障に並々ならぬ関心と理解を持つ第八司令官マイケルバーガー中将 ―日本の安全は、第八軍が担当している、日本の危機は第八軍の危機にほかならない。自身の帰国が決まった直後、幕僚たちに朝鮮半島で南北衝突が発生した場合を想定した図上演習をさせた。結果は、北朝鮮のソ連が訓練して旧日本軍の武器で装備した12万5千人が、アッという間に形ばかりの南朝鮮軍と絶望的に貧弱な補給線しか持たぬ米軍とを圧倒し、米軍は敗北して日本に逃げ込めるかどうかも危うい、という結論。もし、ソ連が北から日本を攻め、同時に朝鮮半島で発火し、日本国内でも左翼勢力が蜂起すれば、日本がどうなるかは明らか、従って中将は講和の成立時期に関係なく、第八軍が日本に存在する限りは安全対策を用意しなくてはならないー 中将の眼から見れば、在日朝鮮人は単なる居住外国人、それなのに戦勝国民を自称して日本の治外法権者のようにふるまい、前年は朝鮮人関係の犯罪が一万件を突破した。文部省は一月、全国に任意に設立され学校放棄を無視している朝鮮人学校の閉鎖を命令したが、いらい朝鮮人連盟指導の反政府デモが頻発している。中将は不安感を強め、最近の日本の社会的混乱は朝鮮人の権利に対する不幸な誤解に基づいている、朝鮮人は日本の法律に従うべきである、と警告を発した。

 4月23日、朝鮮人約千百人が神戸市兵庫県庁に押し掛け、三百人が庁舎に入り知事面会を強要、全員検挙方針の下に795人を逮捕、デモ隊を解散させた。大阪でも児童約千人を含む朝鮮人約一万五千人が府庁に押し寄せた。代表70人が知事と交渉するうち、外のデモ隊が乱入、駆け付けた警官三千人との間に乱闘騒ぎが発生、200人が検挙され、デモ隊は退去した。4月24日、再び朝鮮人デモ隊約7千人が大阪府庁を包囲、動員された警官と小競り合いを重ねるうち、警官側が空に向けて拳銃を威嚇射撃、デモ隊は四散した。しかし千五百人が神戸に向かい、兵庫県庁に突入、知事ら幹部を一室に軟禁してつるし上げ、閉鎖命令の撤回、前日逮捕された朝鮮人の釈放を要求、知事に容認させ、引き揚げた。これを聞いて中将は、事件は単なる騒擾ではない、日本と米国に対する公然たる反乱だと激怒、神戸地区司令官に断固たる措置をとるよう下命した。司令官は直ちに神戸市内に非常事態を宣言、宣言が発せられると、自動的に日本側警察は米軍憲兵司令官の指揮下に置かれ、被検挙者は占領政策違反容疑で米軍法会議にかけられることになる。26日中将は伊丹空港に到着、地区司令官たちに、なぜ朝鮮人をやすやすと県庁に乱入させたのか、と質し、声明を発表した。「本事件は、自己の選択で日本に在住し生計の道を立てている外交人が、正当に選ばれた日本人の代表者に暴行を加え、これによって文明の基本的要素そのものを傷つけた。法と秩序をもたぬ文明はなく、法の執行と法の遵守を伴わない法と秩序はあり得ない」と。中将はさらに県庁を視察した後、逮捕者の中に神戸市議会議員ら日本共産党員8人が含まれていた、と報告を聞き、記者会見を行い、今回の事件は日本共産党の扇動によるものだ、と言明、さらに根こそぎ朝鮮に送り返すに巨船があればよいと思うとまで付け加えた。そのあと法務総裁鈴木義男が現地に派遣され、中将と会談した。この種の国内事件は日本警察が処理すべきと中将が言うと、すかさず総裁は、「そのためにはせめて拳銃ぐらいは十分に警官に支給していただきたい」 尚政府も声明を発表した。「政府は、日本人たると朝鮮人たるとを問わず、法と秩序の遵守を否定するものに対しては断固たる措置をとる方針であり、全国民が支持することを確信する、尚この政府方針は、連合国最高司令官の政策に完全に合致する」と。中将は司令部に帰ると、鈴木総裁の拳銃支給要請を伝えると、司令部参謀長は、日本警察の武装問題は総司令部でも研究中だが、特別対日理事会で、日本の会場保安庁設立問題がソ連代表が反対した。海の警察力強化が認められなくては、陸の警察力増強問題に移り難い、という。ウーン、これには驚きだ。日本の警察に拳銃を持たせるのも、自分では決められないとは。

 海上保安庁設立は三年越しの懸案だった。終戦後の日本近海は無法地帯に等しく、日本漁船は頻りに拿捕され、密入国、密輸も相次いだ。その対策のために日本側は、1946年早々、運輸省海運総局船員局長大久保武雄を通じて、総司令部に米海軍による漁船保護と日本水上警察の強化を要望した。総司令部は応諾し、船員局に不法入国船舶監視本部の設置を許可した。総司令部は旧海軍駆潜特務艇28隻と旧軍人三千人の使用を認め、1947年10月、日本政府は「海上保安政府機関設置法案」を作成した。これに異論をとなえたのが民政局だった。本計画の承認は準軍事的訓練の正式認可となり、日本海軍の実質的建設の中核として利用されかねない、と。日本側は、そこで、隻数、総トン数、速力、人員などを大幅に縮小した案に修正、総司令部の承認を受け、海上保安庁設置法が国会を通過した。4月28日の対日理事会で、ソ連代表は、海上保安庁の創設は日本警察力の強化であり、日本軍復活につながる、それを最高司令官が勝手に許し支援していたのは連合国の対日政策違反だ、と反対、結局、極東委員会の承認を得るまで海上保安庁の発足は見合わすことになった。翌日の極東委員会では海上保安庁保留が評決されたが、米代表が拒否権を行使して決定を無効にし、海上保安庁は5月1日に発足することになった。中将のその日の日記に、「日本は自衛の第一歩を踏み出した」。

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