回り道 外務省革新同志会の発足と外務省の外交

2016年06月28日 | 歴史を尋ねる
 大戦後のパリ講和会議で、日本政府は人種差別撤廃案を成立させることが出来なかったものの、山東省権益・南洋諸島権益については要求がほぼ承認されたことから、一応の成果を収めることが出来たという認識を持っていた。しかし講和会議において日本全権は自らの判断で進められず、本国からの指示を仰ぐ交渉姿勢は各国からサイレント・パートナーと揶揄され、さらに山東省権益継承問題の時は、人種差別撤廃案を山東問題の取引に使った、あるいは外交的煙幕として提出したといわれ、日本が掲げた人種平等という原則に対してこれを疑問視する声が上がるようになっていった。日本に対して各国から非難が上がっていく中で、日本にとって最も衝撃的であったのが、同じアジア諸国である朝鮮や中国で発生した三・一運動、五・四運動と呼ばれる抗日運動の激化であった。
 大正8年(1919)3月1日、日本が人種差別撤廃案を会議で提案し、各国との交渉を重ねていく中、朝鮮で三・一運動と呼ばれる独立運動が発生する。それは、ウイルソン大統領の民族自決主義の主張に刺激されたものであったが、根本的原因は過去における日本の統治に対する怒りや差別が爆発したものであった。この排日運動は、中国での五・四運動によって頂点を迎えた。五・四運動は、4月30日日本の山東問題についての要求が講和会議で承認されたことに対する、中国民衆の不満の現れであった。当時の東京朝日新聞は社説の中で、「日本が関東州、その他満州における殖民政治で、日中両国人にたいして差別的待遇を行っており、近年それが一段と露骨になっている」と指摘し、さらに「在日中国人留学生は彼らに対する日本人、ことに日本人学生の傲慢無礼な態度、警察官の無知、下宿屋の虐待などで社会的差別待遇を受けており、非難の声が上がっている」と論じている。大戦後の新しい国際的風潮の中で開催された講和会議で、欧米諸国の失望や中国・韓国からの反発にあい、国際社会の中で孤立した存在となっていった、と永田氏。

 このパリ講和会議における日本外交の失敗は、日本国内に多くの影響を与え、特に外務省は様々な変革を遂げていくが、講和会議に参加した随員の自己批判として、「英国の如き全権の宿舎のほかに三大ホテルを借受け数百人を組織し各問題につきそれぞれ専門家を網羅するのみならず問題となる各地に膨大な情報機関を有し常に情報を事務所に集中し印刷所も有したり。従って問題起これば詳細なる報告と提案を速やかに作成し問題毎に詳細なる調査と意見を提出出来る組織、材料も整えた。米国の同様であったが、わが事務所は僅か数名の実業家及び財務官を専門家として有するに留まり、特に経済労働交通の如き問題については何らの予想も準備もなく又事務に当たる書記官以下の如きは委員会、五国会議、首相会議にわずかに手分けして出席し報告に忙しく、事務所における調査研究立案にも従事し、多くは数問題に兼担する有様で、人手不足、準備不足、組織狭小到底他の四大国の如く事務意に任せず・・・」と会議外交の経験不足、語学力を含めて数々の問題点が浮上、省内部で外務省革新の認識が広がった。会議に参加した若手官僚達の意識は目覚ましく、9月30日有田八郎、重光葵、斉藤博、堀内健介らを中心に「外務省革新同志会」が結成され、外務省上層部もこれを認めて、語学留学や他官長との交換人事といった制度が設けられ、外務省の機能充実が推進された。外務省が講和会議以降積極的な活動を展開していく一方、外交調査会は国際連盟を始めとする外交問題の専門化及び複雑化のため、次第にその機能が低下、廃止説が盛んとなり、ワシントン会議が終わって軍縮に関する諸条約が批准されるに及んで、単なる外交報告機関に化してしまった。大正11年(1922)9月を以て廃止された。また軍部もパリ講和会議やその後のワシントン会議で、平和主義的風潮で外交政策決定におけるイニシアチブを低下させた。外交調査会、軍部が外交に対する影響力を低下させたことが要因となって、外務省が再び表舞台に立つことになった。これが所謂「幣原外交」と呼ばれる、外務省主導による対米協調外交が展開されていった。

 ここからは永田氏の論を離れて、当時の外交環境を見てみたい。パリ講和会議後の講和会議後の外交課題は軍縮であった。1921年1月の米上院で、海軍長官が、日英同盟がある限り軍縮は望めない、米国は日英同盟の海軍力に対抗できるようになるまで建艦を止めないとの発言だった。米国の動向を受けてロンドンで開かれた大英帝国議会では、日英同盟継続問題が中心議題となった。ヒューズ豪首相は「敵としての日本より同盟国としての日本の方が望ましい。日英同盟の廃棄は、西欧諸国グループから日本を排斥するに等しくなる。また、日本が英国のような文明国と同盟することは、日本にある種の抑制を課することになる」と論じた。南アは、同盟という第一次大戦の惨禍をもたらしたシステムによらず、国際共同体の精神の下の協議によるべきだという、ウイルソン主義の公式論を述べた。カナダは、最も強力な同盟継続反対派として秘密会ではリードしますが、公開の席では、中国を含めた協議を提案した。孫文は日英同盟に反対しているので、中国を含めるとは、反対という意思です。英国政府内の閣僚はチャーチル植民地相を含めすべて同盟継続派だった。もし日本が同盟堅持を言えば、同盟が継続したと岡崎久彦氏はいう。ところが、日英同盟を最終的に切ったのは、日本代表幣原喜重郎だった、と。原敬は幣原を深く信頼し、ワシントン会議の交渉は、閣僚でもない幣原に任せきりにするほどだった。英国は窮余の妥協策として、①日英米の協議条約を作る、②必要に応じて、その中の二国は軍事同盟を結ぶ自由を有する、という試案を作った。結局、日英米に仏を加えた四か国協議条約という、その後の歴史が示す通り、何の役にも立たない条約にしたのが幣原だった。幣原は同時に討議された中国問題でも、二十一か条要求の第5項の正式放棄、石井・ランシング協定の解消、満州における種々の特権放棄などを譲歩した。幣原は地理的優位があるので中国での経済競争に勝てるとの考え方だった。旧来の同盟による勢力均衡という習慣を断ち切って日英同盟を廃棄し、中国では機会均等という米国の理想主義的原則に全面的に同調する政策をとった。結果から見れば、それは失敗だった。米国自身がその後、孤立主義となって理想主義を世界に広める意欲を失い、また既存の国際秩序維持のワシントン体制よりも中国の国権回復運動に同情的となり、幣原の理想は裏切られた。フランスも同様にドイツの報復を恐れてロカルノ条約を与えられたが、何の役も立たなかった。同盟で安全を守るという手段を奪われた各国は、モンロー主義を持つ米国と大英帝国を持つ英国を除いて、砂のようにバラバラになり、かえって誰も安全を保障されない世界に放り出されるという結果になった、と岡崎氏。歴史の歯車は、なかなかかみ合うのがむつかしい。アメリカという異質な超大国が登場して、誰も先行きの見えない時代だったと、岡崎氏は幣原に同情を寄せる。

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