中国の近代化は日本文化の受容に始まる

2023年11月21日 | 歴史を尋ねる

 タイトルは仰々しいが、これは黄文雄氏の著書「近代中国は日本がつくった」からの引用である。戦後の日本人でここまで言える人はいない。氏は1938年台湾生まれ。64年に来日して早稲田大学、明治大学大学院を卒業して、旺盛な執筆・評論活動を展開、筆者は日本だけでなく中国の造詣も深く、氏の評論には首肯する所が多い。「日本にあれほどの中国専門家がいながらも、誰一人として、文化大革命や林彪事件の発生を予告したものはいなかった」。林彪事件の直後、そう批判し、自己批判したのは、当時東大教授の衛藤瀋吉氏であった。中国を知る事の難しさを述懐された至言である、と。氏は続ける。もっと魔訶不思議なのは、遡って江戸時代の朱子学者は中国を「聖人の国」「道徳の国」とたたえ、中華人民共和国建国初期に中国を「蚊も蠅も泥棒もいない地上の楽園」と流布したのは戦後の日本文化人だ。いずれも中国が最も悲惨な時代であった、と。日中間の近現代史を百年戦争史とする見方が、中国側だけではなく、日本人の間でも相当定着している。明治以降、日本は一貫して中国侵略の陰謀を推進してきたという歴史観があるが、日清戦争は数か月、満州事変は数日、日中戦争(支那事変)でも一年余で、実質的な戦闘は終息している。その間に若干の小競り合いがあったとしても、その熾烈さや犠牲者はとても中国百年内戦の比ではない、と。
 中国の近現代史は、十八世紀末以降一世紀半にわたって内戦、内乱、内訌で彩られていた。一方、対外的には西力東來を受け、黄人VS.白人という文明史的な流れがあり、それが中華文明の歴史の終焉をもたらしている。日中戦争というものも、そうした中華文明衰亡史の一環にすぎなかった、と黄文雄氏。ふーむ、大局的には、そうした見方も成り立つ。2005年3月から4月にかけて起こった「反日愛国」デモについて、中国政府に言わせると、その責任は日本にある。中国人は永遠に無謬であり、悪いのはすべて日本人。だから日本は繰り返し反省と謝罪をしなければならない。黄文雄氏に言わせると、戦後日本が反省と謝罪を繰り返してきたのは、やはり自業自得である。あまりにも中国を知らなすぎるからだ。1995年、終戦五十周年の総決算として「国会不戦決議」を可決したが、これは国会議員の思惑とは全く逆に、中国政府にとっては反日の好材料を作ってしまった。中国はその国会決議を「不反省の決議」「過去の侵略をごまかそうとする犯罪」「平和の決議ではなく平和の破壊である」「軍国主義復活決定の表明」「不謝罪決議」と言い、「中国に対する公然たる挑戦だ」「皇国史観の証明書」などと罵詈雑言、日本は逆に集中砲火を浴びせられた。本来なら、日中の過去はすでにサンフランシスコ講和条約、そして日華平和条約、足りなければ日中平和友好条約の締結で終わっている。それなのに「国会不戦決議」を採決。これで中国の歓心を買うことが出来なかったばかりか、罵詈詬辱(ばりこうじょく)される。
 黄文雄氏は以前から繰り返して、「日本人は中国に対し反省や謝罪をする必要は一切なく、むしろ中国の方こそ日本に感謝すべきだ」と主張してきたが、それはあくまでも日本の近現代史、日中関係史の真実を見つめた上でのことである。日本は日清戦争以降、中国を侵略したというより、むしろ中国の再生を願い、政治、経済、文化、そして文明そのものの再構築に驚くほど貢献している。近代中国をつくったのは日本人であり、少なくとも日本なしでは中国の近代化は絶対にあり得なかった、と黄文雄氏。耳を傾けるべきである。

 『日本に感謝』で思い出すのが、遠藤誉氏のエピソード紹介から。1956年8月、中南海に日本の遠藤三郎(元陸軍中将) ら元軍人訪中団一行が訪ねてくると、毛沢東は待ち構えており一人一人と握手した。毛沢東は開口一番語った。「日本の軍閥が中国に進攻してきたことに感謝する。さもなかったらわれわれは今まだ、北京に到達していない。過去にあなたたちと私たちは戦ったが、ふたたび中国に来て中国を見てみようという、すべての旧軍人をわれわれは歓迎する」(遠藤氏注:毛沢東は侵略はおろか、侵攻という言葉さえ使わず、進攻という文字を選んだ)「あなたたちはわれわれの先生です。われわれはあなたたちに感謝しなければならない。まさにあなたたちがこの戦争を起こしたからこそ、中国人民を教育することが出来、まるで砂のように散らばっていた中国人民を団結させることだできた」 また、『廖承志と日本』のなかで廖承志はこう記述している。さらに同行した元陸軍中将の堀毛一磨は、毛沢東及び政府要人たちが、ともかく過去を忘れ、将来について語ろうではないかという事ばかり強調していたのが印象深かったと手記で述べている。当時口封じのために投獄逮捕された潘漢年はまだ牢獄にいた。これは毛沢東が他界するまで「南京大虐殺」に関して触れなかったのと同じ心理が働いていると考えるべきと、遠藤氏。蒋介石が率いる国民党軍が第一線で戦ったような過去の話に触れてほしくないし、訪中するものが次々と過去を謝罪することにうんざりしていた、と。1964年7月、日本社会党の佐々木更三や黒田寿男ら社会党系の訪中代表団と会った時の会話が『毛沢東思想万歳(下)』(東京大学近代中国史研究会訳、三一書房、1975年)に載っているのを遠藤氏は読んで、毛沢東自身は主として進攻あるいは占領という言葉を使っているのに対して、日本語翻訳では、それらを侵略で統一していることを見つけている。つまり日本側の方が侵略という概念の贖罪意識があり、毛沢東は侵という文字を一貫して避けている、と。しかし、佐々木らも謝罪し続けるので、毛沢東はついに中華ソヴィエト区から延安まで逃げる長征の時に触れ、「残った軍隊はどれだけだったでしょうか。30万から2万5千人に減ってしまいました。われわれはなぜ、日本の皇軍に感謝しなければならないのか。それは日本の皇軍がやってきて、われわれが日本の皇軍と戦ったので、やっとまた蒋介石と合作するようになったからです。2万5千人の軍隊は、8年戦って、120万の軍隊となり、人口1億の根拠地を持つようになった。感謝しなくてよいと思いますか」とまで吐露した。これ以上言ってくれるな、言わせるなという毛沢東の心情が目に浮かぶ、と遠藤氏。以上は他の項目で以前紹介済みだが、毛沢東の口から感謝という言葉が度々出てくる。単なる外交辞令ではない。毛沢東の言う感謝は、黄文雄氏の言う感謝と意味合いが違うが、大きく括れば、日本の存在が現在の中国を誕生させている。今の中国はなかったという意味では、黄文雄氏の言う『日本なしでは中国の近代化は絶対にあり得なかった』と言ってもいいかもしれない。中国の近現代史で、日本はそれほど関わっていたのは間違いない。

1、日清戦争が中国と日本の命運を分けた
 日本にとっての日清戦争は、国家の存亡をかけた大戦争、天皇から庶民に至るまでの総力を挙げての大戦争だった。一方、清国にとっての日清戦争は、国内的には挙国どころか西太后派と光緒帝派の権力闘争という様相を呈していた。開戦後、日本軍が北京に迫り、清国側は講和せざるを得ない状況になったが、両派はここでも和戦を巡って対立した。西太后派は講和を主張し、李鴻章を全権代表として日本に送り、日清講和条約「下関条約」に調印した。皇帝派による条約反対の訴えは、全国規模の反対運動を巻き起こし、光緒帝は西太后派の巨頭に説得され条約の批准に同意したが、全国の巡撫や総督も運動に同調し、この動きが戊戌維新以降の清末の近代改革運動へと発展していった。しかし講和反対論者は、自ら戦地に赴こうとする抗戦論者ではなく、列強の支援に期待した他力本願的な強硬論だった。
 下関条約締結から6日目、露独仏三国は日本政府に対し、「日本の遼東半島所有は清国を脅かすだけでなく、朝鮮の独立をも有名無実にするものであり、東洋平和の障害になる。露国は日本政府に誠実なる友誼を表明するため、領有の放棄を勧告する」とあり、他の二国も同一の趣旨だった。この三国干渉は日本に言い知れぬ屈辱を与えたが、これをバネに団結し、十年後の日露戦争では宿敵ロシアを打ち破り、大国への道を驀進した。これに対し清は日本との戦局を有利に運ぶため、列強中でもロシアの介入を期待していた。談判の具体的内容を外部に漏らし、列国の干渉を誘発しようとした。眠れる獅子と目されていた清が日本に敗れ、列強が分け前を要求し始めた。翌年ロシアは露清密約を結び、シベリア鉄道と連結した東清鉄道の敷設が決定、鉄道所有地にはロシアの排他的行政権が認められた。密約を締結したのは李鴻章だった。ロシアと同盟して日本に対抗しようとした。親露感情は清国の官僚の間でも広く持たれていた。しかし、間もなくそのロシアが遼東を奪い取った。ドイツは山東省でドイツ宣教師の殺害事件が起こると、軍艦を派遣して杭州湾を占領した。英国もこれに対抗して九龍半島と威海衛の租借権を獲得、フランスは杭州湾の租借権を獲得した。もはや清国は領土的要求を断る力がなくなって、英国は揚子江沿岸、フランスは海南島と広西、雲南両省の不割譲を清に約束させ、自らの勢力範囲と設定した。日本も福建省の不割譲を清国に受諾させ、米国は国務長官ジョン・ヘイによる「門戸開放宣言」を発し、出遅れた米国による中国蚕食競争への参加宣言を行った。当初清が天祐とばかり喜んだ三国干渉は、実はこの国の分割という亡国の危機を招来しただけでなく、その後の東アジア争乱の禍根となっていった。
 黄文雄氏は、なぜ中国は日本とは逆のコース、亡国のコースを進んだのか、疑問を発する。指導者が国際情勢に暗かったというだけではなく、国家意識が欠如していた、私利私欲に走ったからだ、と。更に洋務運動の旗手、近代化運動の指導者、張之洞ほどの人物でさえ、日本に対する憎悪の余り、「三国に援助を請うなら領土を割譲すべきだ」「ロシアと英国が日本を脅して講和条約を破棄させたら、ロシアには新疆を、英国にはチベットを与えたらいい」と皇帝に上奏した、と。ここには英知が微塵も感じられない、と黄氏は断ずる。

2、北清事変で際立った日本軍の良心
 「意気盛んな義和団愛国運動は帝国主義の仇敵視と恐慌を引き起こした。八つの帝国主義国は連合して、中国侵略を発動した」 中国の歴史教科書が教える義和団事件、北清事変である。中国だけでなく、日本の進歩的学者も基本的に持っている、つまみ食い史観の典型だと、黄氏。義和団とは白蓮教の流れを汲む迷信的宗教結社で、孫悟空などを神として祀り、義和拳を習得すれば刀剣も銃弾も跳ね返すと考えていた。ドイツの山東半島進出後、外国人宣教師や中国人信者との間に摩擦が生じると、「扶清滅洋」のスローガンを掲げ、華北一帯に波及し、二百人以上の白人宣教師やその子供、そして二万人の中国人キリスト教徒が殺害された。北京にいた十一カ国の公使は清国政府に鎮圧を要請したが、何ら手をうたず、各国部隊は居留民保護のため北京に駆け付けた。清国は各国公使館に「中国の全国民は激高しているから、政府としては居留民を保護しきれない。24時間以内に天津に退去せよ」という要求を突然突き付けた。清国政府の万国に対する宣戦布告であった。清国軍は北京で義和団が蜂起したのを受け、それを機に義和団と合体し、天津の外国人居留地への攻撃を開始、清国政府は開戦の上諭を発布。これに対し天津の連合軍はわずかであった。各国は英インド兵、仏ベトナム兵などアジアの植民地軍を派遣、日本からは臨時派遣隊が到着、まず天津で義和団と清国軍を粉砕、さらに北京に進軍してこれも粉砕、63日間、孤立無援で苦闘していた列国の公使館員、居留民、兵士は、ようやく敵の重囲から解放された。
 西洋こそが文明と考えられていた時代に、アジアの一新興国である日本は、西洋諸国からは未だ必ずしも文明国の一員とは認められていなかった。国際法を遵守してこそ文明国という観念が、文明開化後の日本人に強かった。だから日本軍はこの事変において、あくまで国際法を遵守し、軍紀を厳粛にして、日本が既に欧米先進国並みの文明を有していることを頑なまでに示そうとした、と黄氏。そうした姿勢を全軍が示し得たのは、皇軍としての誇りである、と。ロンドンタイムズは社説で「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界が感謝している。列国が外交団の虐殺や国旗凌辱を免れたのは、ひとえに日本のお蔭だ。日本は欧米列強の伴侶たるに相応しい」と論評、1902年に英国が名誉ある孤立の伝統を捨て、日本と日英同盟を結んだのも、日本軍のこの時の武勇と文明ぶりを見たからだった。因みに、この事変での日本軍の死亡者は、戦死244、戦傷死86、病死675、計1005人。連合軍中最多であった。しかし、日中関係史を考えるうえで、象徴的な逸話がある、と。
 穏やかな占領が続いた日本軍占領地では、やがて日本人の排斥を訴えるビラが中国人によって街中に貼られるようになった。これは血の弾圧が行われた他国の占領地区には見られなかった現象だった。黄氏の見立てでは、中国人には、残酷な統治者には従順だが、優しい統治者には増長して歯向かうという性格がある。異民族統治に慣れた西洋人は早くからこれを見抜き、排外運動には容赦ない武力弾圧を加えて中国人を屈服させている。そして彼らに畏敬の念さえ植え付けることに成功している。ところが情の民族であり、何事にも「話せばわかる」「以心伝心」と考えてしまう日本人にはそれが出来なかった。日本人の大陸政策最大の失敗は、東洋の道義というものに惑わされ、中国人への名状のないやさしさが禍し、自ら墓穴を掘ったことだ。だから中国人の排外運動の対象は、侮るべき優しい日本人へと絞られ、やがて日中全面戦争へと突入していく、と。現代の中国人がことさら日本の「過去」を責め立て、それに比べて西洋人のそれには手心を加えているのは、恐らくこの頃植え付けられた畏怖、畏敬の審理が根強く残っているからだろうと、黄氏は分析する。更に言えば、敗戦国、戦勝国意識が強く働いているのだろう。
 北京で、連合国と清国は北清事変に関する議定書を調印した。この北京議定書によって列国の軍隊は北京から山海関に至る鉄道の要所での駐兵権が認められ、沿線での演習も出来るとされた。日本軍は1901年、この条約にもとづいて清国駐屯軍を発足させ、天津に司令部を置いた。1937年7月の盧溝橋事件における日本軍の駐屯と演習も、この条約にもとづいたものだった。犯人が誰にせよ、日本軍があそこにいたのが悪かったという言論がよく聞かれるが、それはあくまで条約で認められていた。平和維持上の駐兵だった。一世紀以上にわたって内戦が絶えなかった中国には、列強の駐兵が必要だった。

3、近代化のノウハウは日本に学べ
 最初に日本に清国留学生が派遣されたのは日清戦争直後の1896年、張之洞は1898年に著した『勧学編』において、「日本は小国であるが勃興が早かった。伊藤博文、山県有朋、榎本武揚、陸奥宗光らはみな二十年前、留学生だった。西洋の脅威に憤る百四人を率いて独、仏、英に渡って政治、工業、商業、軍事を学び、帰国して宰相になった。そして政事は一変し、強国になった」と言って日本留学政策を提唱した。かくして清国留学生は日本列島に押し寄せ、あらゆるジャンルにおける近代的知識を吸収し、帰国後は政治改革や近代文化の振興、あるいは革命をリードするなど国家の主導的役割を果たしている。熊建雲の『近代中国官民の日本視察』によると、日本留学生は次の通り。 ①1911年12月に行われた中華民国南京臨時政府を樹立するための会議における十七省の代表45名のうち、その大半。 ②翌年1月に就任した中華民国南京臨時政府の内閣メンバー18名のうち、50%を占める9名。 ③北洋政府時代(1912~28年)に閣僚に任命された1447名のうち、556名。 ④国民党政権のなかでは、広州国民政府の委員24名のうち、14名。武漢国民政府の委員24名のうち、11名。南京国民政府の委員81名のうち、40人。重慶国民政府の委員66名のうち、37名。 ⑤共産党創立大会(1921年)に出席した正式代表12名のうち、陳独秀、李大釗、李達、董必武、李漢俊、周仏海の6人。 ⑥国共合作の下で開催された国民党一中全会のため選出された主席団員5名全員。第一回中央執行委員24名のうち17名。 ⑦軍部は日本留学出身者が牛耳っていた。 以上を見ると、中華民国は元日本留学生が建国した国と言っても過言ではない、と黄文雄氏。
 1896年の最初の日本留学生13名は、清国駐日公使館の募集に応じたもので、駐日公使裕庚が文部大臣西園寺公望に教育を委託し、西園寺は東京高等師範学校(後の筑波大)の学長嘉納治五郎に彼らを託した。この年以降、毎年百人前後の留学生が日本に渡った。北清事変後の1901年、西太后の新政により清政府が留学生派遣政策を本格的に進めてからは年々増加し、1905年には八千人を超え、ピーク時の1906年には一万人前後ともされ、あるいは二、三万人に達したとの資料もある、と。1905年を境に留学生が急増を見せたのは、この年に科挙制度が廃止されたこと、もう一つは日露戦争に於ける日本の勝利を見、近代化のモデルとしての日本に対する信頼が強まったことであった。しかし1911年に辛亥革命が勃発すると、留学生の多くは急遽帰国し、結局千人ぐらいに減った。これら留学生の多くは、日本の近代化の進展に触発され、祖国の改革、反清革命を志した。また西洋思想、近代日本の興隆を支える啓蒙思想、哲学、社会思想を懸命に学び、それらを本国に発信し、あるいは持ち帰っていった。
 一方清国の留学生に対し、日本の朝野は熱烈歓迎の姿勢を取った。日本が清に望んでいたことは、国家の近代化。ことに官民有識者の間では、三国干渉以降の西力東來による危機感の高まりから、清国が速やかに弱体・腐敗体質を改めて近代改革に着手し、日本との提携関係を構築することが切実に望まれた。これに対し北京のロシア公使などは清国高官に「日本は憲政国家だから留学生がその気風に感染して民権思想にそまる可能性がある。我が国は貴国と同じ専制国だから、子弟を遊学させても問題はない」と説いて回り、日中提携の牽制に懸命だった。ロシアの盟邦ドイツでは日中教育交流の増進を、黄禍だとする指摘も登場した。
 貴族院議長で東亜同文館(1898年から1946年にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる)会長も務めるた近衛篤麿は、日清提携の礎を築きたいという主張を持つ代表的人物で、清国を訪問して張百熙、劉坤一、張之洞、袁世凱に日本への留学生の派遣を説いていた。国内では清国留学生教育を国家的事業にするべきだという声を上がっていた。日本は中国の目覚めに期待した。
 富国強兵や新教育制度の確立を急ぐ清国政府は、確かに留学生の派遣に力を入れてはいたものの、「中体西用」の発想から依然抜け出しておらず、技術の手っ取り早い習得ばかりを重視して、長期的な教育自体にはあまり関心を持っていなかった。だから日本に派遣する留学生の四分の三は三、四ヵ月の速成科で学び、早々と帰国する有様だった。留学生派遣に誰よりも熱心だった張之洞にしても、「西洋の書は甚だ煩雑だが、西学のうち重要でない部分は日本人が既に削除、酌改している。中日は風俗が近く、日本は模倣しやすい」「経を日本に取ることは労少なく効果は大きい」といった安易な考えだった。利益を獲得するに当たり、獲得をやたら急ごうとするのは中国人の民族性でもある、と黄氏。

 日中の文化交流と言えば、遣隋使や遣唐使の時代を思い浮かべるが、そのようなスケールを伴う日中間の文化交流は明治時代、中国で言えば清末に行われた。かっての交流とは逆に、中国が日本の文化的恩恵を受け取る形だ。文化交流はまず文献から。西洋文明の摂取を急ぐ中国の開明派知識人が着目したのは日本の洋書だった。当時の日本では様々な学術書が発行され、世界の名著の翻訳も盛んだった。それに漢字を使っていることから、中国人には翻訳もし易かった。中国人は「欧米が三百年かけた政体の構築を、日本は欧米を模倣して三十年で成し遂げた」(康有為)ことの秘訣を探りたかった。日本書の翻訳作業は維新派の康有為や梁啓超、そして洋務派の張之洞らの鼓吹によって積極的に進められた。日本書の翻訳の担い手となったのが、日本への清国留学生である。留学生たちは新思想に飢えていた。日本に到着するや書店を探して飛び込んだ。日本人の著書や西洋の訳書をむさぼるように読んだ。それだけではなく、それらを中国語に訳して本国に紹介する作業に着手した。彼らを駆り立てたのは、日本で受けた文化的なショックであり、祖国の近代化建設や啓蒙への情熱だった。日本で出来ることは中国にも出来る、日本は留学生にとり、まさしく希望の星となった。
 彼らが最初に用いた手段が、本国向けの定期刊行物の発行を通じて、翻訳文の紹介であった。つぎつぎと創刊され、1900年~1911年までに六十数種類、1907年には21種類に及んだ。留学生が翻訳した作品は、中国では大歓迎を受け、国民に広く読まれ、行政の参考書や学校の教材にも用いられた。日本で一冊新刊が出されると、あっという間に何種類もの翻訳が出現すると言った状況だった。このようにして大量の思想書が、彼らを通じて中国に流れ込むようになった。それまでの中国では、洋書の翻訳は西洋人の宣教師が中心となって行ってきた。その役割を今度は、千人単位の留学生の若者が担うようになった。そしてそれまでの中国での近代化運動の「中体西用」、つまり西洋文化のソフト面を無視してハード面だけを導入しようとの基本姿勢から来ていた限界も、ようやく乗り越えられるようになった。このような文化運動がなければ、清末の改革運動や辛亥革命後の民国建国といった近代化の動きはあり得なかった、と黄文雄氏は考える。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 漢字と日本人 | トップ | 日本からの近代文化輸入が中... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史を尋ねる」カテゴリの最新記事