漢字と日本人

2023年11月09日 | 歴史を尋ねる

 最終稿を終えたのに、どうしても記録に残しておきたいと思い、少しだが、再度投稿することとした。キッカケは、2007年4月のNHK教育テレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」で「加藤徹氏の「日中二千年 漢字のつきあい」を読み返した時であった。
 加藤氏は言う。・日本人は漢字を使うまでに600年もかかった。 ・日本の学校では、国語の授業で、古文や漢文を教える。現代の英米人が読める一番古い英語は、400年前のシェークスピアの戯曲とか欽定訳聖書などだ。日本の中学や高校では2500年前の論語の漢文さえ、漢文訓読によって、国語として教える。 ・落語「饅頭こわい」のルーツは漢文笑話「畏饅頭」。 ・中国社会科学院の李兆忠氏は「現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は日本語から来たものだという統計がある」と。 以上を少し掘り下げてみたい。

 まずはウキペディアで文字とは。 世界にはさまざまな文字があり、またさまざまな分類法がある。基本的な分類として、「音」だけを示している「表音文字」と、基本的に「意味」を示している「表意文字」がある。世界全体を見ると、主に表音文字ばかりが使われている地域と、主に表意文字ばかりが使われている地域と、基本的に両者を混合して使っている地域がある。たとえばヨーロッパの英語やドイツ語やフランス語のアルファベットは表音文字であり、一文字一文字は音素(音の要素。音の一部分。特定の、舌の動き・唇の動き・口の形などで生じる音)を表しており、アルファベットが2〜3文字まとまることで音節(発音の小単位)を示している。表音文字の一文字一文字は、あくまで音を表すためのものであり、原則として、意味が全く無い。それに対して中国で使われるようになった感じは表意文字であり、表意文字はひとつひとつの文字だけでも何らかの意味を表していることが多い。たとえば「明暗」という語は、2つの漢字「明」と「暗」からなるが、「明」一字だけでも意味がある。また「暗」一字だけでも意味がある。そして二文字を組み合わせて「明暗」という一語(ひと単語)になっている。中国では主に漢字ばかりが使われる。一方、日本語で使われる文字は、(中国から伝来した)漢字と(漢字から表音文字を作るために部分を抽出し、形を独自に変形させた)ひらがなやカタカナがあり、漢字のほうは中国語同様に原則的に表意文字であるが、ひらがなやカタカナのほうは「表音文字」であり、つまり現代日本語のありふれた文書に使われる文字は、表音文字と表意文字の両方を並行して使っている。以上を押さえておいて、漢字に対する日本人の関りを見ていきたい。

 1、日本人は漢字を使うまでに600年もかかった
 中国に伝わる伝説によると、蒼頡(そうけつ)という人物が、最初に文字を作ったとされる。“昔者、蒼頡、書を作る。天は粟を雨ふらせ、鬼は夜哭す” 「蒼頡が初めて文字を発明した時、二つの奇跡が起きた。天は穀物の雨を降らせた。幽霊は夜、声をあげて泣いた」と。文字という偉大な発明は、人類の文明に明るい面だけではなく、暗黒をもたらした、文字に魔性があるという、寓意である。漢字で書いた漢文は、何千年も前に死んだ人の言葉を、生き生きと伝えることが出来る。昔の人は、漢字にはそれぞれ霊力が宿っているから、そんなことが可能だと考えた、と、加藤 徹氏はこのように推察する。漢字は、昔の中国人にとって、単なる文字以上の神聖な存在だった。二十世紀の前半まで、中国の町には「惜字炉」という炉が普通に在り、漢字には霊魂が宿っていると考えられたため、漢字を書いた紙はゴミとして捨ててはならず、専用の炉にくべて火葬にしなければならなかった、と加藤氏。
 漢字が生まれたのは、三千数百年も前の中国古代の時代、漢字の字源には、野蛮で血なまぐさいものがある。古代の戦争では、敵を捕まえると、首をはねたり、戦利品として奴隷にした。首という漢字を上下ひっくり返すと、県となる。懸という漢字は、県と糸を含む。懸はもともと、切断した人間の首を、上下逆さまにしてひもでぶら下げる、という意味の文字だった。現代日本語の懸賞という言葉が不気味に思えてくる。古代の戦争では、首の代わりに殺した敵兵の耳をそぎ落として、これを手柄の証拠にすることもあった。たくさんの耳を糸でじゅず繋ぎにした様子を示した感じが聯で、連なるという意味。今日も聯合という言葉で使われている。このように、残酷な字源の例は、枚挙にいとまがない。という事は、漢字には三千年以上に及ぶ人間の歴史に影が、刻印されている。

 古代ヤマト民族は、八百万(やおよろず)の神を信じていた。言葉にも言霊(ことだま)という霊力があると考えていた。ヤマト民族の固有語である大和言葉では、「事」と「言」を区別せず、「コト」の一語で表した。「死ぬ」という不吉な「言」を口にすると、本当に「死ぬ」という「事」が起きる。このような迷信を、言霊思想という。古代ヤマト民族の言霊思想によれば、「事挙げ」(ことあげ)すなわちことさら言葉に出して言い立てることは、タブーだった。漢字には、死んだ人の名前や言葉を記録する能力がある。目の前にない遠くの事物についても、正しく伝えることが出来る。古代ヤマト民族の目には、漢字は、言霊を封じ込めて保存する異国の魔法のように見えたのではないか、と加藤氏。日本人の祖先は、墓に死者の名前を書くことを嫌った。応神天皇の時代に、日本に漢字が伝わったとされている。しかし奈良時代より前の古墳で、被葬者の名前を明記した墓碑や墓誌を持つものがない、と。日本人の祖先は漢字を拒絶したのではないか、と加藤氏は推察する。
 日本人が自国の歴史を文字(漢字)で書いた最初の本は、聖徳太子と蘇我馬子が620年に編纂した「天皇記」「国記」である。聖徳太子も蘇我馬子も仏教徒、経典を読む必要もあった。彼らが日本初の歴史書を書くことが出来た理由は、古代ヤマト民族の信仰(「神ながら言挙げせぬ国」)から、自由だったからかもしれないと、加藤氏はこの様に分析する。
 加藤氏の分析は一見納得しやすいが、どうも歴史的事実と照らすと、そこまでではなかったのではないか、日本人なりに文物の吸収は努力していたのではないか。遅くとも二千年前には、漢字を書いた文物が、日本に入って来た。例えば後漢の光武帝が西暦57年に倭の奴国の使者に与えた「漢委奴国王」の金印や新の王莽が鋳造させたコイン「貨泉」などがある。魏志倭人伝では、3世紀前半、卑弥呼の使者が通訳を連れて、魏の皇帝に挨拶に行っている。5世紀、倭の五王の時代、長文の上表文を中国の皇帝に差し出している。当時の日本なりに、漢字の習得も努力していたのではないか。日本書紀に、

『 十五年の秋八月六日に、百済王くだらおうは、阿直岐あちきを遣わして良馬二匹を奉った。そのままかる坂上さかのうえうまやで飼わせた。それを阿直岐あちきに管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂うまやさかという。阿直岐あちきはまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子うじのわきいらつこは学問の師とされた。天皇は、阿直岐あちきに尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁わにという者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君かみつけのきみの祖の荒田別あらたわけ巫別かんなきわけを百済に遣わして、王仁わにを呼び寄せなさっ
た。その阿直岐あちきは、阿直岐史あちきのふひとの始祖である。十六年の春二月に、王仁わにが来て、すぐに太子・菟道稚郎子うじのわきいらつこが師とされ、多くの典籍を王仁わにに習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁わに書首ふみのおびとらの始祖である。— 『日本書紀』、巻第十、応神紀』

 皇太子が多くの典籍を王仁に習った、とある。これまで、漢字ないし漢文を体系的に習う機会がなかった。それを王仁が作ってくれた、と日本書紀では読み取れる。伝承では、百済に渡来した漢人であるとの説もある。こうした積み重ねが、聖徳太子の時代に花開いたと解釈するのが自然である。ただ言えることは、確かに時間がかかった。この辺は、加藤氏の指摘する所かもしれない。

 2、日本の中学や高校では2500年前の論語の漢文さえ、漢文訓読によって、国語として教える。
 日本の漢字は、複数の読音を持っている。「明」という漢字の訓読みは「あけ」「あか」など、音読みは「めい」「みょう」「みん」など。単語によって「明」の字は読み分けられる。日本以外の国では、中国でも朝鮮でも越南(ベトナム)でも、一字一音が原則。漢字に自民族の固有語を当てはめて読むという訓読みは、日本だけ。「訓」の訓読みは「よむ」であり、詳しくは「ときほぐしてよむ」こと、つまり漢字の意味を優しく解説したり言い換えたりすることを意味する。日本ではもっぱら漢字を日本語に固有の大和言葉(和語)に翻訳することを意味した。漢字の訓読みを発明した日本人の祖先は、漢文訓読も発明した。訓読とは、外国語である漢文(古典中国語)を日本語文として読むという、定型的訳読法。漢文訓読の起源について不明だが、和化漢文の存在から推定すると、六世紀頃ではないか、と加藤徹氏。現在確認されている限り、訓点は八世紀頃から断片的なものが現れた、と。「日本人は外国から輸入した文物を学び、これを改良して使う能力にたけている」という説を加藤徹氏は眉唾と否定しているが、漢文訓読もまさしくそれに該当するのではないか。自国の言葉に直す(翻訳)という事は、自民族の考え方に沿って解釈(咀嚼)し直す、という事ではないか。これで初めて、生活実感として他国の言語が理解できる、日本人の要求水準がそこまで高い水準だった、と言えるのではないか。そういえば、下田に居を構えたハリスの所に、地域の住民が押し寄せ珍しいものを知りたがった、欲しがったという歴史的事実を思い出したが、その背景には、日本人の好奇心の強さが、ここまでの行動を起こさせているのではないか、と思えてくる。
 16世紀までの日本で、漢文の読み書きができたのは、公家や僧侶、役人など、一部の知識階層だけだった。訓読の方法も、長い間、それぞれの学者の家の秘伝とされた。武田信玄が大江家と源氏の秘伝とされていた漢文の古典「孫子」を学び、「風林火山」の旗指物を使ったことは、よく知られている。戦国大名は、天下取りレースに勝ち残るため、漢文の読み書きができる僧侶や知識人を、ブレーンとして活用した。徳川家康も儒学者の林羅山や禅僧の金知院崇伝などを抱えていた。1607年、家康は漢文の書籍を印刷して大名や武士に配布するため「駿河版銅製活字」を作らせた。家康は、豊臣家を滅ぼしたあと、元号を『元和(げんな)』に変え、幕府の許しを得ない死闘や戦争を禁じた。これを元和偃武(げんなえんぶ)という。元和は平和の世の始まり、偃武は武器を伏せて戦争をやめること。出典は『書経』の句「偃武修文」だった。幕府は武士が儒学を学ぶことを奨励し、漢文訓読も一般に公開された。従来の「ヲコト点」ではなく、「一・二点」や「レ点」、カタカナによる送り仮名など、初心者でも簡単に習得できる訓点が、世の中に広まった。
 五代将軍綱吉は、漢文の学問が大好きで、みずから『易経』を講義したり、孔子廟(湯島聖堂9を建設した。水戸光圀も、潘の事業として漢文による歴史書「大日本史」の編纂を始めた。こうして江戸時代中期以降、武士や町人のあいだでも、漢文に学習がブームとなり、漢文の素養が日本人の血肉となっていった。江戸時代の日本人は、正統派の漢文だけでなく、『白話』(中国語の口語体)を交えた文芸作品までも、訳本が出た。三国志演義や水滸伝などは訳本を通じて、庶民の間で人気を博し、落語の「饅頭こわい」という噺も、中国の笑話集のある原話を、ほぼそのまま使っている、と加藤氏。
 1840年のアヘン戦争でイギリスと戦った林則徐は、西洋の脅威に危機感を持った。そのブレーンだった魏源は「海国図志」という本を著し、欧米の事情を紹介すると共に、「外国の技術を学ぶことで外国に対抗する」という方策を提唱した。しかし詰め込み教育で頭がいっぱいであった中国の士大夫は海外事情に興味を持たなかった。魏源の本は、すぐに日本に輸入された。これを読んだ幕末の日本人は、西洋文明の実力を認識し、植民地にされるという深刻な危機意識を懐いた、と加藤氏は「海国図志」の影響を伝えている。

 3、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は日本語から来たものだという統計がある
 英語を母語とする英米人は、世界のどこに行っても、現地の人が何を話題にしているかくらいはわかる。現地語の会話の中に「デモクラシー」とか「エコノミー」という単語が混じれば、民主主義とか経済のことを話しているのだな、と察せられる。ところが日本を含む東アジアの漢字語圏では、ミンシュシュギとかケーザイとか、英語の言語と全くかけ離れた発音の語を使う。それは、英米人の耳にはショックを与えるそうだ。日本では、幼稚園から大学院まで、すべての教育を日本語で受けられる。この事実も、欧米人を驚かせる。アジア・アフリカには、高等教育は現地語ではなく英語やフランス語で行う、という国が、いまも珍しくない。日常生活を送るには現地語だけで間に合うが、現地語には科学や西洋近代哲学の概念を表す単語がないため西洋語で授業をせざるを得ない、という国は案外多い、と加藤氏。日本も明治の初めころまでは、日本語で高等教育は出来なかった。欧米から多数のお雇い外国人を招聘して、西洋の学問や科学技術を学んだ。明治の初めの陸軍では、日本人の上官が、フランス語で号令をかけて教練を行うという光景も見られた。明治政府の初代文部大臣となった森有礼は、日本語だけでは近代的な高等教育を行うのは無理があると考え、英語を日本の公用語とする英語国語化論を提唱した。しかし、日本は英語を公用語にせずに済んだ。明治の後期には、日本の大学では、日本人の教授が日本語で大学生に講義をする光景が、当たり前になった。日本は、日本語だけで文明生活を営める国となった。その秘密は新漢語に在った。

 漢語の多くは中国から伝来したが、中には日本人が造った日本漢語がある。加藤氏は次のように分類している。和製漢語:日本人の歴史や生活の中から生まれた漢語。大半は明治以前からある。例えば大根、心中、家来など。 新漢語:西洋近代の学問を翻訳する過程で考案された漢語。例えば、科学、技術、哲学、自由、権利、義務、宗教、進化、経済、人民、共和国など。日本人が最初に西洋文明に触れたのは、十六世紀、ポルトガル人が種子島に火縄銃を伝えたとされる頃、キリシタン文献には、すでに自由という漢語が見られた。江戸時代中期、杉田玄白らは翻訳の過程で、神経などの新漢語を考案した。新漢語が爆発的に増えるのは、幕末の黒船来航以降。多数の啓蒙家が、西洋の思想や学術を紹介するため新漢語を考案した。なかでも西周と福沢諭吉は、西洋の学術用語を体系的に翻訳し、日本に紹介した。日本人が造った新漢語には、もともと漢文に存在した古い漢語を新しい意味に転用したものと、全くの新語としてゼロから造ったものの、二つがある、と。例えば自由という新漢語は、前者の例で、中国の古典漢語にも出てくるが、意味がまったく逆で悪い意味でつかわれた。西洋語のフリーダムやリバティに敢えて自由という訳語を当てたのは江戸幕府通訳の森山多吉郎だった。最初は違和感があったようだが、他に適切な訳語もなく、自由の新漢語が定訳となった。日本人が考案した自由という新漢語は、中国本土や朝鮮半島にも輸出された。
 十九世紀末の中国(清)では、康有為や梁啓超らが中国も日本の明治維新の成功にならって政治を改革すべきだと主張し、自由、権利、義務、国会、憲法、司法、立法、行政などの日本漢語を、そのまま文章の中で使った。なぜ近代の中国人は、自分たちで考案した新漢語を捨てて、日本漢語を使うようになったのか。日清戦争で日本が中国に勝利した後、大量の中国人留学生が日本に渡って勉学し、日本語の翻訳書を通じて西洋の学芸を学ぶようになったことも理由の一つ。ただ、より大きな理由として、日本人が考案した新漢語には、センスが優れたものが多く、中国人にもすんなり受け入れられたからだと、加藤徹氏は言う。西洋の知の根幹をなすフィロソフィーという学問を日本人は哲学と訳した。中国の学者で書家としても有名な兪樾(ゆえつ)に会った日本人が論文に載せると、「近頃の世の中では、誰もが哲学という学問を談じている。恥ずかしいことに、私は時流に疎く、哲学とは何か、よく知らなかった。ところがなんと、私自身も哲学者なのだった。日本人の言葉によって、私は始めてそれを知った」という漢詩を作っている。中国革命の父孫文にも、同じような逸話がある、と。1895年、清朝打倒を目指して活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、日本に逃げて来た。上陸して日本の新聞を見ると、「支那革命党孫文日本に来る」という見出しが飛び込んできた。「革命」という日本漢語を見て、孫文は衝撃を受けた。もともと中国の漢文では易姓革命の意で、王朝の交替を指す言葉に過ぎない。しかし日本漢語の革命はレボリューションの訳語だった。社会体制を根底から変えるという新しい意味。孫文は興奮して同志に語った。「日本人はわが党を称して革命党という。意義は甚だ良い。わが党は以後、革命党と言おう」と。
 日本漢語が近代中国に与えた影響について、中国社会科学院の李兆忠は次のように語っている。「漢字文化圏に属する多くの国家や民族を見回して見ると、漢字をこのように創造的にすり替え、もう一つの漢字王国を樹立し、かつまた中国語へ恩返ししているのは日本だけだ。例えば、西洋の科学に関する著作を翻訳する際、中国の学者は「中学為体、西学為用」(中国の学問を体とし、西洋の学問を用とする)という文化的な信念を堅持し、中国の古典を引用して西洋科学の概念を既存の語彙に置き換えようとした。例えば現在の経済学を、計学あるいは資生学と翻訳したり、社会学を群学と訳したりし、結局どうにもならなくなった。しかし日本の学者は、実用的で柔軟なやり方で、文字本位制の制限を受けず、意訳の方法によって、数多くの多音節の語彙を作り出し、見事に西洋の概念を置き換えることに成功した。これによって、日本が西洋に学び、近代化の道を歩んでいくうえで、言語の面で道路が舗装された」と。漢字の交流は、今日も続いている、漫画やインターネットなどの媒体を通じて、新しい形の漢字の付き合いが始まっている、と加藤徹氏は15年前に語っている。

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