連日の猛暑と打って変わって、涼しいを超えて肌寒い、
それでも湿度も低くすがすがしい。
禅堂に入ると、すでに1名が着座、
老師のお話が始まっていた?、スタートの6時の前なのに?、
急いで入堂、自分のザブの位置につき、姿勢を整える。
続いて老師のお話
「入定」と言う言葉があります。
(辞書では「入定とは禅定(ぜんじよう)の境地」にはいることとある、)
これを達成するのは、大変難しいことです。
それを求めて「坐禅」をするのです、
何かをするのではなく、静かな世界に入っていく(思い)のです。
その手法は「兀兀として坐定して、この不思量底を思量せよ」と
道元禅師様が教えています。
「兀兀」とは、急ぐのでなくゆっくりと身を整え、意識的な呼吸をする、
その手法は10人10色で良いのです、このことを自覚しなさい。
次に「不思量底」とは、考えても考えようのない世界、
具体的には呼吸・姿勢・心で命を知り、静かな世界、厳正と異なる世界を目指すのです。
人間の命は、骨・皮膚等が生きているのでなく「個性が生きている」のです、
現世だけでなく前世・未来世等に「個性」は引き継がれ
生きていくのです(仏陀の教え)、
三世につづく人間の命、その個性を引き継ぎ、未来世に繋がるのだと教えている、
善悪・白黒を超越したところの世界感です。
神仏等による、運命として「お任せの世界」です。
そんな世界、そこへ行くのが「入定」です。
三世に通関の命・姿、これが仏陀が説かれた「非思量」、
これが坐禅の姿でもある。
今朝の堂外は、涼やかな空気、川のせせらぎ、竹林の春の風(竹林は、今が春とのこと)
鳥や獣たちも一時の命を満喫しているのです。
私達人間も例外ではありません。
そういう「世界に入れるよう努力しましょう、それが坐禅です」。
その姿を「めんそ」という、と結ばれました
(漢字も意味も分かっていません)。
そして無言の30分、延べ45分間の「1炷」となりました。
「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に
仏道を成ぜんことを」と、回向唱えられ、
小鐘1つ。
後は、坊守さんを交え、お茶とお菓子での雑談、
話題やはりコロナでした。