tarpin翁のスローライフ

福井県奥越地方の季節たより、ガーディニングなど、
写真日記・・・そして・・・。

はや小寒、初仕事は「家庭坐禅」。

2019年01月06日 | 坐禅会

静かで穏やかに、そしてのんびりの

お正月を過ごすことのできた今年。

いよいよ寒さ重なる時節、

当地の本当の寒さは、大寒のあと2月初めが一番寒い。

 

周年お世話になっている禅堂、「義宣寺さん」

早朝坐禅会は、

老師のお身体・参禅者の高齢化(若い人も居ますが)

1月2月はお休みと話合いになっています。

 

月一度は座らねばと思うのが、

これが今年の初仕事。

家庭の中ですから寒さは対処できますが、

お尻に敷く「座蒲(ざぶ)」がない、

座蒲団を4つに折ったり、パンヤを敷いたり

で座ってみても今一つ座り心地が悪い、

それでも、これで行くか、1炷40分は・・・。

 

結果からご報告しますと、僅か15分でギブアップでした。

それでも年初めの座り初め(坐禅)は、やったとの満足感。

 

この作法、老師(義宣寺東堂)さまから

いただいた書(平成26年12月)。

「恁麼(いんも)の七事」、

曹洞宗開祖、道元禅師様が

「本気で仏に近ずくための坐禅の教え」。

老師の書の最後2行に、

「恁麼の事を得んと欲せば

急に恁麼の事、努めよ」と。

凡人の私には、なかなか仏の気持ちになるのは難しいけれども、

内容は理解でき、

今、一度読み直す機会ともなりました。

 

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今年の最後「早朝坐禅会」は、真っ暗。

2018年12月16日 | 坐禅会

冷え込みの強い朝、当地はまだ積雪が無いのはうれしい。

家を出る頃は6時前、未だ真っ暗な夜。

「禅堂」も当然真っ暗、「坐禅会の表札」も読み取れない。

すでに上がっている人もいたので、しばしの歓談。

老師がお撞きになる、「6時の時報梵鐘」に腰を上げられたので

坐蒲(ざぶ)に付く。

凛とした暗闇の中での「梵鐘の音と般若心経の読経」はかすかに聞こえる。

 

席に戻られた老師の「検単(けんたん)」を受け静寂の世界。

平素は坐中にいろいろなお話しを頂けるのですが、

今朝は一切の声なく、ダダ静寂、禅堂中央にや置かれた石油スト-ブの油の流れる音、

もう一台の大型ストーブのファンの音、この2つだけが音として聞こえる。

40分を過ぎ、ようやく外が白けて来る、小鳥は鳴くことなく

カラスの鳴き声のみが聞こえ出した。

しばしの静寂の中で「鐘一つ」坐禅の終了です

ストーブの置かれた禅堂。

老師の座蒲と小鐘

静かな老師の初めての語、最後の作法、

「合掌低頭、両手を両膝の上に仰向いて置く、上体を小さくほぐし徐々に大きくゆする、

組んだ足を解き、右回りでユックリ立ちあがりなさい」。

この間丁度60分。

師のお話しの無い60分連続の坐禅は長かった、

よく考えると検単の後、席に着かれて

「3つの鐘(スタート)」しっかりの40分であったのでしょう

あけた朝の禅堂前

 

本日の参禅者男性3・女性3(うち二人は福井市と越前市から)の6名でした。

坐後に「お茶と干し柿」を頂き、積雪を踏まえ、「1・2月はお休み」を確認し合った。

無事に一年を過ごせたことの感謝を喜びあい解散。

 

その後、3人でワンコインの朝食店へ移動、

取り残した写真の紹介と来年の旅など、

尽きることの無い時間、

10時には帰宅できました。

 

 

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「早朝坐禅会」、往路はまだ暗い。

2018年11月20日 | 坐禅会

月1度の例会「早朝坐禅会」。

自宅を出る時はまっくら、6時のスタート時間も暗い。

梵鐘をたたかれる老師の読経と鐘の音。

一年で一番風情のあるスタートです。

 

1炷40分の終わるころには、ようやく明けきった朝の景色

いつの時間に白けてきたのは気が付かないのは、

一生懸命座っていて気が付かないので

有ったろうと推察しています。

さて、禅堂に戻られた老師の「検単」、

そして小鐘3つは正式スタート、今朝は僅か6名の参禅でした。

 

坐中のお話は沈黙10分過ぎ、

「大きく息を吸って、おへそのあたりに貯める、その時、意識は親指、手のひら・足の組みよ

う等すべての意識を集中する、吸った空気は、腰をしっかり伸ばし、やへその下に

力を入れ静かに吐いていくのです」。と、

 

しばらくその後、また沈黙、小鳥の声さえ聞こえない静寂の暗い時間。

 

仏とは物持たぬ心、仏は自己に我を持たぬなり、仏は我を忘れた大偶になる」。

「仏とは相手によりそう心」

我を立てなく相手を立てる、すなわち若者に対しては身も心も若者に、

高齢者にあっては身も心も高齢者になる、こうした様は、

その人に仏の姿と、見よ。

一方においては、一法を業ずるなり、今ここに座ってすることは一つ、

身を構え手足を組んで静かに呼吸している、

すなわち息しているは「生きている」ことなのです。

我がを立てないで相手を立てていく、吸う息、吐く息だけになりきることは、

次々ににやって来る色々なことに受け身で立つ、

仏は、自らの偶とは、周囲から見ておろかに見えるかもしれない随順の姿、

やってくる事柄に合わせていく、我を立てない事なのです。

老・若の他人と一緒に生きていく事は、

それぞれが仏と言われる有りようを見ることが出来るまで己を磨いていく、

もう他人の人生ではない、そこまで行き着くと己が己に向かっていきます、

そこに安住する、そこに腰を収め左右を見わたし生きていく、

そのすすめが坐禅「只管打坐」ただただ座るのです。

今一度正しい息の出し入れをする、

すなわち「息するは生きている」ことなのです」と結ばれた。

そして、又沈黙10分、

きっちりの40分で小鐘1つで終わりとなりました。

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早朝坐禅会は新しい解説「舎利礼文」。

2018年10月27日 | 坐禅会

10月中旬過ぎの今日6時は、未だ明けきらず薄暗い、

禅堂は電燈が付けられたままである。

すでに座り続けていらした老師は、参禅者みんなに

座ると同時に正しい姿勢を望まず、

ゆっくりゆっくりと体を温める時間を取ること。

と言い残し、6時の梵鐘釣鐘へ。

ゴーン梵鐘の音、その間に聞こえる「般若心経」の読経は静かな

禅堂にも伝わり神聖ないい時間である。

戻られた老師は、座を解き立ちあがれと指示。

私の姿勢と息の整え方とついて見なさいと示された

姿勢は法界定印に結んだ手の平に意識を置き、深い静かな息をする、

足を組んだ上に置かれた結んだ手のひらは、

息を吸うと空気が胸に入りお腹が膨らむ、

そしてお腹に力を入れる、吸う・吐くを数回繰り返すと息が整う

同時に正しく吸われていることを認識してい、心をこれに合わせるのです。

丹田前に結んだ手のひらを、足の上に乗せ、足に力を入れる。

ここでは単なる深呼吸でなく、意識された深い息をする、

静かに長く出す息に心がける。

大きな「あくび」をする方法は、手のひらを合わせ3本くらい口深く入れる、

目を開け鼻を開け、口を開く、そして深い深呼吸。

この繰り返しで、各自にとり「深い世界に入ることが出来るよう」

努力しなさい。と

それではと、「小鐘3つ、スタート」である。

沈黙の7分、

坐中の話が始まる、

姿勢が整い息(気)が整ったら、今一つ大切なことが有る。

それはいろいろな表現があるが「舎利礼文(しゃりらいもん)」

と言うお経の教えにある。

簡単に言えば「お釈迦様の骨を拝む」ことである。

お経は

「一心頂礼 萬徳圓満 釋迦如来

真身舎利 本地法身 法界塔婆 

我等礼敬 爲我現身 入我我入 

佛加持故 我證菩提 以佛神力

利益衆生 發菩提心 修菩薩行 

同入圓寂 平等大智 今將頂礼」

老師の解説は、

私と言う小さな我を捨て、お釈迦様の教え大我を、尊ぶものとする、

私たちの日常の動作では、お釈迦様が私たちの体の中に入ってくださり、

私どもの動作は、お釈迦様がやらしてくださっているのです。

相手の身になり、和やかで平和な世界を作ることが

仏陀の願いでもあるのです。

今座っていることの意味は、そんな事を理解し実践するためです、

それぞれの思いのなかで味わい、座り続けてください」と結ばれた。

 

しばらくして「息を吸うときは力を入れよ」とも。

今日の老師のお話しには、難解な語句が多く苦しみました。

 

参考のため専門家の直訳を記しますと

「遺骨の礼拝を通して、釈迦の本質や法、世界全体を礼拝し、如来と一体となって悟りを得、神仏の力によって人々を救済し、悟ろうとする心で修めれば、涅槃にいたり大智が完成される

一心とは「心から」という意味であり、頂礼は「五体投地」の意味で、

釈尊の遺骨の前ですべてを投げ出し礼拝し、最大の敬意を払いますと言う事です

お経は、亡くなった方の為だけに唱えていると思われがちですが、

それぞれの仏様の功徳を表したものであり、多くは釈尊の教えです。

釈尊の教えを今生きる私たちが聞いて、

仏様に帰依する気持ちを持つ事(回向)が大事。」

 

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月例「早朝坐禅会」に参加。

2018年09月16日 | 坐禅会

定刻より15分も早い到着でしたが、すでに老師と参禅者1名が着座。

私も「今日は時間が長いぞ」と覚悟を決め坐に着く。

6時の梵鐘のため立ち会かられた師は、これから10分間身体を自由していてください」

で立ちあがられた。

いつものように般若心経の読経と鐘の音。

戻られた師は「検単」、各自の姿勢を直され着座、

小鐘3つはスタート。

35分間の沈黙・・・。

突然のお話し。

今1炷(チュウ)40分間の5分前です。35分間座ったことになります。

これからの5分間は、足腰が痛くつらい時間でしょう。

これは「慣れ」、なじむしか方法はありません。

「なじむことが大切です」。

同時に、「こうして坐っていることの意味は何か」、

なぜこんな事しているのかと・・・、

すでに10年以上座っている皆様は、何らなの見識、答を

持ってしかるべきです、しかし本当にそんな自覚が有りますか、

と問われた。

そして、こんな逸話、良寛さんのお話しが語られた

年配の男性が「私も長く生き、幾多の本を読み、色々な経験を学びました」

と自負された。

すかさず、良寛さんは、「広い窓口で多くを学ぶことは意味が有り大切です」、

しかしもっと大切なことは「この知識の一つを掘り下げこれを我が物にして実行すること

「万巻の書を読むより意味が有る」と諭され、

それが人生の答えだと。

加えて良寛さんは、「如実知自身」、

すなわち「本当の自分の真実を知ること」だと諭された

 

坐禅をしている私どもは、

「如実知自身」であり、これを実行しているのです、

今の私は本当にこうした思いを一生の宝物にして生きているのか、

身体の苦痛や、雑念、それらを打ち払い「如実知自身」。

参禅者の皆さまにとっては如何ですか。

それが一人ひとりの課題です。

朝、目をさまし、息が出来る、手か動く、物が見える、耳が聞こえる、

今日も「御親の慈悲に守られ生きていることが出来ている、ありがたいことだ…」

こんな思いで暮らすことも生き方の一つです、

その一つ一つをかみしめて座ることが坐禅の意味です。

と老師の言葉で語られた。

そして小鐘1つ(放禅鐘)、坐禅会の終わりです。

合唱・礼、手のひらを膝の上に置きゆっくりゆっくりと足を解く、

そしてゆっくり立ちあがる。

(「徐々として身を動かし安詳として起つべし」とある)。

禅堂「義宣寺」いつもと違う角度から紹介します。

 

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