tarpin翁のスローライフ

福井県奥越地方の季節たより、ガーディニングなど、
写真日記・・・そして・・・。

月例「早朝坐禅会」に参加。

2018年09月16日 | 坐禅会

定刻より15分も早い到着でしたが、すでに老師と参禅者1名が着座。

私も「今日は時間が長いぞ」と覚悟を決め坐に着く。

6時の梵鐘のため立ち会かられた師は、これから10分間身体を自由していてください」

で立ちあがられた。

いつものように般若心経の読経と鐘の音。

戻られた師は「検単」、各自の姿勢を直され着座、

小鐘3つはスタート。

35分間の沈黙・・・。

突然のお話し。

今1炷(チュウ)40分間の5分前です。35分間座ったことになります。

これからの5分間は、足腰が痛くつらい時間でしょう。

これは「慣れ」、なじむしか方法はありません。

「なじむことが大切です」。

同時に、「こうして坐っていることの意味は何か」、

なぜこんな事しているのかと・・・、

すでに10年以上座っている皆様は、何らなの見識、答を

持ってしかるべきです、しかし本当にそんな自覚が有りますか、

と問われた。

そして、こんな逸話、良寛さんのお話しが語られた

年配の男性が「私も長く生き、幾多の本を読み、色々な経験を学びました」

と自負された。

すかさず、良寛さんは、「広い窓口で多くを学ぶことは意味が有り大切です」、

しかしもっと大切なことは「この知識の一つを掘り下げこれを我が物にして実行すること

「万巻の書を読むより意味が有る」と諭され、

それが人生の答えだと。

加えて良寛さんは、「如実知自身」、

すなわち「本当の自分の真実を知ること」だと諭された

 

坐禅をしている私どもは、

「如実知自身」であり、これを実行しているのです、

今の私は本当にこうした思いを一生の宝物にして生きているのか、

身体の苦痛や、雑念、それらを打ち払い「如実知自身」。

参禅者の皆さまにとっては如何ですか。

それが一人ひとりの課題です。

朝、目をさまし、息が出来る、手か動く、物が見える、耳が聞こえる、

今日も「御親の慈悲に守られ生きていることが出来ている、ありがたいことだ…」

こんな思いで暮らすことも生き方の一つです、

その一つ一つをかみしめて座ることが坐禅の意味です。

と老師の言葉で語られた。

そして小鐘1つ(放禅鐘)、坐禅会の終わりです。

合唱・礼、手のひらを膝の上に置きゆっくりゆっくりと足を解く、

そしてゆっくり立ちあがる。

(「徐々として身を動かし安詳として起つべし」とある)。

禅堂「義宣寺」いつもと違う角度から紹介します。

 

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早朝「坐禅会」は、気持よく座れた。

2018年08月19日 | 坐禅会

今朝のすがすがしさ、

先日までの真夏日続きの反面か、気持ちの良い朝、

坐禅の苦しみ?など、感ずることなく快調。

 

禅堂前の梵鐘付近は「高砂百合」が咲き乱れる、

季節の移ろいでしょう。

10分も早く参上、すでに老師と女性3名が坐に着いている、

到着と同時に私も坐に着く。

いつものメンバーがほぼそろった時。

老師から「これから梵鐘を撞きます、その間、屋外にいるも良し、

体の位置などじっくり整えなさい」と。

老師の撞かれる「般若心経の読経と梵鐘の音」は、いつもの通り。

席に戻られた老師は、無言の「検単」。

小鐘3つは正式坐禅スタート、

そして40分・1烓(いっちゅう)は、全くの無言、

坐中のお話が無いと、時間が長く感ずる。

(蝉やキリギリスの声は聞こえず、カラスの鳴き声のみであとは静寂)

鐘1つでおしまい。

 

足を解き、坐蒲の始末途中にお話しが始まった、

どんな姿勢でお聞きするといいのか、

とりあえず胡坐座り。

 

足を解くと、つらさや苦痛が無くなり、いずれそれは忘れてしまう

季節に置き換えると、涼しくなりいずれ寒くなる、と、猛暑のつらさが薄れ

いずれ忘れる、同時に寒さが身にしむ、

仏様は、「この世は、すべて所業無常である」と説かれる。

何事も止まり固定していることはない、四季の移ろいを知り

所業無常を味わう。

すなわち、苦しみはいつまでも続くものでなく終わる、

と、楽しみがくる、また楽しみもいつまでも続くものでなく

また苦しみが訪れる。

行持道環(ぎょうじどうかん)」(参禅者と仏とが坐禅を通じて一体となること)

そうした変化を信じていけるかどうか、

そのことがわかるのが「坐禅」である

自分で納得する生活、道を知る。

それがお釈迦様のお勧めである。

と結ばれた。

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「早朝坐禅会」は無言の40分(1炷)。

2018年07月15日 | 坐禅会

6時スタート、15分前に到着。

禅堂では老師と仲間4名がすでに座られ、坐禅姿勢の心得等

お話が始まっている。

恐縮しながら静かに坐に着くと、

「小鐘3つ」、正式のスタートです。

老師は、この後6時の梵鐘のため中座、

禅堂では、静けさ破る釣鐘の音、

同時に般若心経の読経は心を打つ。

 

席に戻られ検単、姿勢のチエックでもある。

この後、いつもは老師の坐中のお話しが有るはずですが、

今朝は一切なし、6時40分まで、老師は無言。

之が参禅者には大変?、

座っているものには坐中の話は、気が移るため、

時間を忘れる、ところが本日のように一切何もなしの坐禅は久々。

それは長い時間に感ずる1炷でもありました。

 

今朝は暑い、なぜか玉の汗、胸に滴る、ハンカチも使わず

一心に法界定印の手の平に

気持ちを寄せるのですが、止まらない

10分くらいは続いたのでしょうか。

 

そのあとの30分は、今年初めての「ミンミンゼミの声」・

アブラゼミ、これも初めての「キリギリスの羽音」、

不気味に「グワッとなくゴイサギ」の鳴き声。カラス・・・。

心ここに非ずと、自然の景色に気がいっていました。

それにしても「義宣寺境内の自然」、

我が家の庭より、多くの自然を感じる時間ともなりました。

 

いつもの通り仲間の3人で「ワンコインの朝食」。

上高地、乗鞍計画がまとまり

23・24日1泊を決行。

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老師の「普勘坐禅儀」から始まった。(そのⅡ)

2018年06月17日 | 坐禅会

 ハートⅠから続きです。

私たちはいろいろな思いをするが

自己は自己、他人は他人で専い、お互い寿ぎあえる世の中、

皆力を尽くして生きようではありませんか。

般若心経」の末文に

「掲諦掲諦 (ぎゃーてーぎゃーてー)波羅掲諦 (はらぎゃーてー)


波羅僧掲諦 (はらそーぎゃーてー)菩提薩婆訶 (ぼじそわかー)」


とある、

さぁ行こう、さぁ行こう、一緒に行こう、明日の素晴らしい国へみんなで行こう、

そして仏のさとりを定住(じょうじゅう)しょう」

これが叫びであり願いである。

 

 

ここまで来て、それでは座りましょう「小鐘3つ」。

スタートです。

今日の坐禅会は道元禅師様の「普勘坐禅儀」を聞かされ、

一段と引き締まったすわりとなりました。

そして20分、「小鐘2つ」。

その場に立ち「立禅」そしてゆっくり歩く「経行(きんひん)」

「一息半歩」右足から、

この際、今まで座っていた私と、今の私は違う事わかりますか、

「仏道をならふというは、自己をならふなり」。

この間、立禅から15分

自己の考えを捨て、ただひたすらに坐る「只管打座」

それが禅定を知る世界です、道元禅師様はそのように説かれた。

長かった今日の坐禅会、延べ70分。

 

なぜ老師が、本日はじめて、御文「普勘坐禅儀」を朗読されみんなに聞かせていただいたのか、

老師が「今日はしたかった」と申されましたが、いつもと違う雰囲気は何だったのだろう。

6時の釣鐘へ移動されるのも長い杖を突かれていた、

15年そして御文「普勘坐禅儀」の読み聞かせ。

最後は「来月も元気にお会いしましょう」と申され、ほっと。

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坐禅会は老師の「普勘坐禅儀」から始まった。(そのⅠ)

2018年06月17日 | 坐禅会

 

この時期の早朝は、すがすがしい

、今朝はむしろ肌寒いくらいでした。

6時の梵鐘と般若心経読経を聞きながら参禅者7名、坐に着く。

老師が禅堂に入られ「検単なし」、

突然、「坐を解きリラックスして聞いてください」。

当山での早朝坐禅会は15年余続いています、毎々私の坐中のお話は、

道元禅師様が中国から戻られ直後に記された、「普勘坐禅儀」の解説を

繰り返していました、これから、この全文を皆様に読んでお聞かせしたい、

この15年こんな気持ちになったことはなく、

なぜか「今日はこの御文を聞かせたい」のです。

と・・。

朧朧としてゆっくりお読みくださる老師の声は、

あたかも道元禅師様が直説語ってくださるような・・・。

この間タイトルから始まり「原ぬるに夫れ・・・受用如意ならん」まで、

「全文8分30秒」。

1240数年前、熊本の川尻港から京都の庵までに書かれた由にて、

原本は現存し「国宝」になっている。

その後数回、書換えられたという御文「普勘坐禅儀」。

 

今、仏教の各派では宗旨が有るが、

道元禅師様は、それは無い。

「仏、それを聞き知る自己の中にある」

「仏道をならふというは、自己をならふなり。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、万法に證せらるるなり。

万法に證せらるるといふは、自己の身心、

および佗己の身心をして、脱落せしむるなり」。

 

自己を知れ、そのことは坐禅することである。

しっかり座り、その作法の大元は「普勘坐禅儀」です。

15年間繰り返し早朝坐禅会の内容は、正しく端坐する方法、

これを皆様に正確にお伝えしたいだけでした。

この御文に坐禅作法の詳細が明確に書かれています。

特におすすめになる教えは、

仏道をならふというは、自己をならふなり」です。

この教えに近ずこうと努力る時、坐禅のその前の私と

坐っている私は違うのです。

同じように思えるかしれませんが、

座る前の私はもう無いのです。今の私が有るだけ

今しかいない私、真を尽くすその姿勢が「只管」、

その姿の私が、仏様である。

この姿を座ってあらわすのが「打座」。

長すぎるので(パートⅡ)へお願いします。

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