新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

嵯峨会

2014年12月10日 | 日記

 京都についてのレポートを書き続けているが、この年末もまた京都を散策するので、その準備を兼ねて岩波新書「京都〈千年の古都〉の歴史」の読書メモを書いている。
 嵯峨会というのは私たち3人の会であり、その名前は3人とその家族程度しか知らない。毎年、京都に一泊していくつかの地域を散策する。
 はじまりは40数年まえにさかのぼる。3人は嵯峨野の湯豆腐屋に宿をとった。その宿の夕食に湯豆腐がでた。美味だった。さらに夕食の給仕をしてくれた年輩の女性が私たち3人の一人ひとりに「こうして食べるんどすえ」とかなんとか湯豆腐の食べかたをいともていねいに説明してくれた。若いころどこへ行ってもぞんざいな扱いしかしてもらえなかった私たち3人は、そのていねいさにえらく感激したのだった。
 仕事の都合で外国に滞在した時期はとぎれがちだったが、ここ数年コンスタントに会えるようになった。今年で18回目を迎える。




京都の南

2014年12月09日 | 日記

 目を南へ向けると鳥羽離宮、宇治、淀川がある。
 鴨川の旧流路と桂川の合流地点に開けた地は景勝の地だった。ここを白河院、鳥羽院が遊興の地に選び(c1129)、寝所や御堂を建設した。のちに鳥羽離宮と呼ばれる。
 王族に対抗して、摂政関白をもっぱら輩出する摂関家は宇治に別荘をつくった。平等院は父の藤原道長から譲り受けた別荘を頼通が寺にあらためた(c1052)ことに始まる。以後、平安末まで藤原家の氏寺として一門の崇敬を受ける。周辺には藤原氏一族の別荘が次々に建立された。「京都〈千年の古都〉の歴史」には、鳳凰堂こと阿弥陀堂は戦乱を免れ、今日に残っていると書いてある。二年前に雨のなかで訪れた修理中の鳳凰堂がなつかしく思い出される。
 巨大な経蔵には空海相伝の如意宝珠など天下の名宝が納められ、摂関家の権威の象徴になっていた。王族が建立した鳥羽の阿弥陀堂のつくりは宇治平等院をまね、それより大きくし、さらに経蔵にはそれ以上の宝物を入れようとした。王家が摂関家の勢いを牽制しようと懸命だったことがわかる。
 石清水八幡宮から降りる途中の見晴台から北方面を眺めると、淀川が流れ、すこし上流で桂川、木津川が、さらに上流で宇治川が合流しているのが見えた。以前には巨椋池という巨大な池があった。巨椋池は1941年に干拓が完了した。生活排水が流れ込んで水が汚濁し、マラリア発生などの被害があったために地元民の要望で埋め立てた。ここは水運の要所だった。巨椋池内にあった淀津は租税、年貢類を陸揚げするところであり、役所や納所が林立した。大阪湾から船で荷を運んでこれる。納所に保管された物資は必要に応じて京都まで陸送された。秀吉の側室、淀君がいたのはここに築かれた淀城だった。

 一昨年の暮れは石清水八幡宮の研修センターに宿泊した。名前や宿泊料金の安さからしてすきま風が吹き込む粗末な寒い施設を予期していたが、まったく反対だった。宿泊客はまばらで、まるで私たち3人のために全館を暖房してくれているような気がした。一般に寺院の宿坊はすいていて安価だ。大きな寺院になると一流ホテルなみの宿泊施設をそなえている。今年は西本願寺内に宿泊する。



京都、東山山麓

2014年12月08日 | 日記

 平安京が建設され始めたころ、東山山麓の集落には死体をその辺に放置する風習があった。鴨川縁にも死体が運ばれていたらしい。王侯貴族以外は人が死んでも墳墓をつくる習慣がなかったので、やがてはだれの遺体がどこにあるのか分からなくなった。
 東山山麓が開かれていったのは、王族や武家が住居や寺院を建てたからだった。北から順に白河、六波羅、法住寺殿と拓かれていく。
 白河院(c1080)は、天皇の位を息子に譲ってからも上皇、法皇として実質的に権力をもちつづけた。そのときに移り住んだ地が東山白河の地だった。当時、鴨川の東は天狗が住むとまで言われたもの寂しい地だった。二条の道を東へ延長し、白河院の御所と御堂を設置した。法勝寺をはじめとする6つの寺院はすべて「勝」という文字をふくむので六勝寺と呼ばれる。法勝寺には高さ81メートルの八角九重塔という前代未聞の塔が建てられた。京都のどこからでも見えるこの塔は白河院の権勢を誇示していたに違いない。いまこの地域には平安神宮、市立動物園などがある。
 六波羅蜜寺があった地域を切り開いたのは平家一族、なかでも清盛(c1170)だった。五条大路と六条大路を東へ延長した地域に一大軍事集落を築いた。
 六波羅は平家没落後は鎌倉幕府の京都での活動拠点(c1221)にもなった。
 後白河院(c1170)はそのさらに南、七条大路から八条大路の延長線上に法住寺殿という院御所を営んだ。これは後白河院の本宅だった。いま三十三間堂や京都国立博物館がある一帯だ。後白河院がこの地を本宅に選んだのには、平家の権勢を頼りにした面を否めない。東山から鴨川へと下る条件の悪い傾斜地をひな壇状に造成した。ちなみに現在の三十三間堂は、清盛が建設し鎌倉期に炎上したものを忠実に再現したものだ。

 去年暮れに散策した知恩院から高台寺にかけての道は白河と六波羅の間をさらに東へのぼった地域だった。



平安京の中心

2014年12月07日 | 日記

 794年、平安京の中心はいまの千本通りだった。いまの京都の中心を京都駅前を南北に走る烏丸通りだとすれば、1.5キロばかり西にあったことになる。
 平安京建設のために描かれた図面はりっぱなものだった。JR山陰線の二条駅から少し北へ上ったところに朱雀門をつくり、その北1キロ平方の土地に天皇の住居や各種の役所をおく大内裏とした。朱雀門から南へ走る約4キロの中央通りが朱雀通りと呼ばれた。朱雀通りから東へ2キロ、西へ2キロ、南北には5キロ程度の長方形が平安京になる予定だった。
 図面はりっぱにできあがったが、町づくりがはじめの意図どおりに進んだわけではない。朱雀通りを境にして西側を右京、東側を左京という。右京の町づくりが完成しないまましだいに衰微していく。原因は桂川の氾濫だったと考えられている。右京の西半分は桂川が氾濫をくり返す湿地帯だった。左京の東を流れる鴨川も氾濫したが、影響を受けたのは左京の東南隅にとどまったのは幸いだった。左京の東南隅はいまでは東海道新幹線が走っている。
 町の中心は必然的に東へ移り、平家が入京する1150年ごろには今の京都駅前を南北に走る烏丸通りに中心が移っている。町域の東は鴨川で区切られていた。

 平安京のまえに長岡京を建設しようとしながらわずか10年で頓挫した。石清水八幡宮の北に東西4キロ、南北5キロ程度の都を作ろうとした。長岡京づくりを頓挫させたいちばんの原因もやはりたび重なる桂川の氾濫だった。天皇家に不吉なことが起こったとも記録されているが、やはり桂川の氾濫による洪水が長岡京建設を断念させたものと思われる。

 川の氾濫は町ができあがってからも家屋を流し疫病を発生させ、何度も人口を半減させている。町屋の汚物処理が現代のようにできていなかったために、洪水で流れ出し、やがては地下水へしみこむ。それを飲んだ人びとは疫病を発症する。

 桂川と鴨川にはさまれ水に恵まれた京都の町は、またその川の氾濫に悩まされていた。





京都の歴史建築群

2014年12月06日 | 日記

 世界遺産に指定されている京都の歴史建築群だが、建設当時のままでいまに残っている建物は数えるほどしかない。
 古い順にあげれば醍醐寺の五重塔(952)、大原三千院の本堂すなわち往生極楽院(1143)、太秦、広隆寺の講堂(1165)、それに北野天満宮内の千本釈迦堂(1227)ぐらいだ。
 三千院内にある往生極楽院は去年の暮れに訪れたばかりだ。私にとっては三度目になるが、そぼ降る雪のなかにたたずむ木造建築のその姿には思わず手をあわせさせる趣があった。上がり框の階段をていねいに竹箒で掃き清める坊さんの姿には頭が下がった。いくら雪をはいてもすぐにまた降り積もる。それでも参拝する客の安全のために掃き清めることをやめない。
 広隆寺は弥勒菩薩像ばかりがもてはやされるが、講堂の建物に価値があることは岩波新書「京都〈千年の古都〉の歴史」を読んではじめて知った。醍醐寺は京都の南東のはずれ、稲荷山の麓にあるようで、おそらく私はこれまで行っていない。北野天満宮は京都北部の行きやすいところにあるが、訪れた記憶がない。
 何百という神社仏閣がありながら、むかしのままで残っている建物がなぜこれほど少ないのか。火災、震災、戦乱で壊されてしまったからだ。
 火災は、火が出ると消しようがなかった。寺院だけでなく町屋もずいぶん燃えては建ち、燃えては建ちをくり返している。建築術が未熟だったせいか地震にも弱かった。五重塔、九重塔など百塔の町の景観を呈した時代があったらしいが、地震でもろくも崩れ去った。戦国時代には寺社も被害を受けた。血気盛んな僧侶も多かったようだ。

今年も暮れに京都の町を歩く。