新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

京都、東山山麓

2014年12月08日 | 日記

 平安京が建設され始めたころ、東山山麓の集落には死体をその辺に放置する風習があった。鴨川縁にも死体が運ばれていたらしい。王侯貴族以外は人が死んでも墳墓をつくる習慣がなかったので、やがてはだれの遺体がどこにあるのか分からなくなった。
 東山山麓が開かれていったのは、王族や武家が住居や寺院を建てたからだった。北から順に白河、六波羅、法住寺殿と拓かれていく。
 白河院(c1080)は、天皇の位を息子に譲ってからも上皇、法皇として実質的に権力をもちつづけた。そのときに移り住んだ地が東山白河の地だった。当時、鴨川の東は天狗が住むとまで言われたもの寂しい地だった。二条の道を東へ延長し、白河院の御所と御堂を設置した。法勝寺をはじめとする6つの寺院はすべて「勝」という文字をふくむので六勝寺と呼ばれる。法勝寺には高さ81メートルの八角九重塔という前代未聞の塔が建てられた。京都のどこからでも見えるこの塔は白河院の権勢を誇示していたに違いない。いまこの地域には平安神宮、市立動物園などがある。
 六波羅蜜寺があった地域を切り開いたのは平家一族、なかでも清盛(c1170)だった。五条大路と六条大路を東へ延長した地域に一大軍事集落を築いた。
 六波羅は平家没落後は鎌倉幕府の京都での活動拠点(c1221)にもなった。
 後白河院(c1170)はそのさらに南、七条大路から八条大路の延長線上に法住寺殿という院御所を営んだ。これは後白河院の本宅だった。いま三十三間堂や京都国立博物館がある一帯だ。後白河院がこの地を本宅に選んだのには、平家の権勢を頼りにした面を否めない。東山から鴨川へと下る条件の悪い傾斜地をひな壇状に造成した。ちなみに現在の三十三間堂は、清盛が建設し鎌倉期に炎上したものを忠実に再現したものだ。

 去年暮れに散策した知恩院から高台寺にかけての道は白河と六波羅の間をさらに東へのぼった地域だった。



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