794年、平安京の中心はいまの千本通りだった。いまの京都の中心を京都駅前を南北に走る烏丸通りだとすれば、1.5キロばかり西にあったことになる。
平安京建設のために描かれた図面はりっぱなものだった。JR山陰線の二条駅から少し北へ上ったところに朱雀門をつくり、その北1キロ平方の土地に天皇の住居や各種の役所をおく大内裏とした。朱雀門から南へ走る約4キロの中央通りが朱雀通りと呼ばれた。朱雀通りから東へ2キロ、西へ2キロ、南北には5キロ程度の長方形が平安京になる予定だった。
図面はりっぱにできあがったが、町づくりがはじめの意図どおりに進んだわけではない。朱雀通りを境にして西側を右京、東側を左京という。右京の町づくりが完成しないまましだいに衰微していく。原因は桂川の氾濫だったと考えられている。右京の西半分は桂川が氾濫をくり返す湿地帯だった。左京の東を流れる鴨川も氾濫したが、影響を受けたのは左京の東南隅にとどまったのは幸いだった。左京の東南隅はいまでは東海道新幹線が走っている。
町の中心は必然的に東へ移り、平家が入京する1150年ごろには今の京都駅前を南北に走る烏丸通りに中心が移っている。町域の東は鴨川で区切られていた。
平安京のまえに長岡京を建設しようとしながらわずか10年で頓挫した。石清水八幡宮の北に東西4キロ、南北5キロ程度の都を作ろうとした。長岡京づくりを頓挫させたいちばんの原因もやはりたび重なる桂川の氾濫だった。天皇家に不吉なことが起こったとも記録されているが、やはり桂川の氾濫による洪水が長岡京建設を断念させたものと思われる。
川の氾濫は町ができあがってからも家屋を流し疫病を発生させ、何度も人口を半減させている。町屋の汚物処理が現代のようにできていなかったために、洪水で流れ出し、やがては地下水へしみこむ。それを飲んだ人びとは疫病を発症する。
桂川と鴨川にはさまれ水に恵まれた京都の町は、またその川の氾濫に悩まされていた。