新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

京都の南

2014年12月09日 | 日記

 目を南へ向けると鳥羽離宮、宇治、淀川がある。
 鴨川の旧流路と桂川の合流地点に開けた地は景勝の地だった。ここを白河院、鳥羽院が遊興の地に選び(c1129)、寝所や御堂を建設した。のちに鳥羽離宮と呼ばれる。
 王族に対抗して、摂政関白をもっぱら輩出する摂関家は宇治に別荘をつくった。平等院は父の藤原道長から譲り受けた別荘を頼通が寺にあらためた(c1052)ことに始まる。以後、平安末まで藤原家の氏寺として一門の崇敬を受ける。周辺には藤原氏一族の別荘が次々に建立された。「京都〈千年の古都〉の歴史」には、鳳凰堂こと阿弥陀堂は戦乱を免れ、今日に残っていると書いてある。二年前に雨のなかで訪れた修理中の鳳凰堂がなつかしく思い出される。
 巨大な経蔵には空海相伝の如意宝珠など天下の名宝が納められ、摂関家の権威の象徴になっていた。王族が建立した鳥羽の阿弥陀堂のつくりは宇治平等院をまね、それより大きくし、さらに経蔵にはそれ以上の宝物を入れようとした。王家が摂関家の勢いを牽制しようと懸命だったことがわかる。
 石清水八幡宮から降りる途中の見晴台から北方面を眺めると、淀川が流れ、すこし上流で桂川、木津川が、さらに上流で宇治川が合流しているのが見えた。以前には巨椋池という巨大な池があった。巨椋池は1941年に干拓が完了した。生活排水が流れ込んで水が汚濁し、マラリア発生などの被害があったために地元民の要望で埋め立てた。ここは水運の要所だった。巨椋池内にあった淀津は租税、年貢類を陸揚げするところであり、役所や納所が林立した。大阪湾から船で荷を運んでこれる。納所に保管された物資は必要に応じて京都まで陸送された。秀吉の側室、淀君がいたのはここに築かれた淀城だった。

 一昨年の暮れは石清水八幡宮の研修センターに宿泊した。名前や宿泊料金の安さからしてすきま風が吹き込む粗末な寒い施設を予期していたが、まったく反対だった。宿泊客はまばらで、まるで私たち3人のために全館を暖房してくれているような気がした。一般に寺院の宿坊はすいていて安価だ。大きな寺院になると一流ホテルなみの宿泊施設をそなえている。今年は西本願寺内に宿泊する。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿