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1970年代から現在の韓国なんでも情報いろいろ目と足で集めました。

「タプコル公園」以前は「パゴダ公園」と呼ばれていました

2009-03-22 09:57:51 | Weblog
1月14日13時30分、仁寺洞でお腹を満たしタプコル公園(탑골공원)向かった。

仁寺洞(インサドン)の入口にある「タプコル公園」にやってきました。ここは1897年、大韓帝国の総税務司だった英国人J.M.ブラウンが造ったソウルで最初の近代式公園。以前は「パゴダ公園」と呼ばれていました。現在はいつもおじいちゃんをはじめ地元の人の集いの場として親しまれている場所。しかしここは韓国の歴史的事件の1つともいえる「3・1独立運動」が始まった場所としても有名な公園なんです。

ソウルの中心部、鍾路(チョンノ)にある広さ15,720?のタプコル公園は、1919年3月1日に起こった抗日独立運動の発祥地。園内には3・1運動記念塔、3・1運動レリーフ、天道教の指導者で独立運動家としても有名なソン・ビョンヒの銅像などがあり、韓国の独立精神を後世にも伝える史跡公園でもあるんです。園内の中央にある「八角亭(パルガクチョン)」は3.1独立運動時に独立宣言書が読まれた場所。このタプコル公園を起点として独立運動が全国的に運動が広がっていったのです。

○八角亭
1897年、ここにあった円覚寺の跡を公園にする時に造られた八角形の東屋。大韓帝国時代には皇室の音楽演奏所として使用されていました。さきほどもふれたように1919年の3・1独立運動の時ここで独立宣言書が朗読された場所。ソウル市有形文化財第73号。

○3・1独立宣言記念塔
1980年、3・1独立運動時の独立宣言を記念するために建てられた記念塔。祖国の独立を宣言し、人道主義に基づく非暴力、民族の自主独立を願う内容が記されています。

○3・1運動記念レリーフ
1919年3月1日、この公園から始まり全国的に広まっていった独立運動で日本の官憲に激しく抵抗する民衆たちの様子が12枚の銅板に刻まれています。

○3・1運動讃揚碑
3・1独立運動の精神を讃え、後世にその独立精神を伝えることを祈願する内容が込められた碑。

○ソン・ビョンヒ銅像
天道教の指導者であり、独立運動家であるソン・ジョンヒの志を讃えるために1996年に建てられた銅像。ソン・ジョンヒは3・1独立運動の時は民族代表33人の代表として朝鮮独立を宣言した人物です。

○ 万海韓竜雲禅師碑
3・1独立運動の時、仏教界を代表して民族代表33人の1人として独立宣言を発表した独立運動家の僧侶、韓竜雲(ハン・ヨンウン)の石碑。

以上のような独立運動にまつわるレリーフや銅像のほかに、10階建ての石塔「円覚寺址十層石塔(国宝2号)」や「大円覚寺碑(国宝3号)」などの文化財も残っています。

○円覚寺址十層石塔(国宝2号)
高麗時代に建てられた敬天寺(キョンチョンサ)十層石塔(国宝86)をまね、李氏朝鮮時代初期に作られた大理石の石塔。高さは約12mで、「ア(亜)」字形の3層基段、そして平面の三層塔、角張った四層から上の塔は、その敬天寺の十層石塔と基本的には同じ。各層に仏会図相、仁王像、仏座像と花草、動物などの模様が刻まれ、塔の中にはお釈迦様の舎利と円覚経が奉安されています。1962年国宝に指定。

○大円覚寺碑(宝物3号)
朝鮮第7代王世祖(セジョ)が1465年(世祖11年)、円覚寺を1464年に建立した由来を記録した記念碑で、1471年(成宗2年)建てられました。高さ4,9m、碑幅1,3m。亀の形の土台は御影石、碑の頭部と胴体は1つの大理石で作られています。1963年宝物(ポムル・国宝と重要文化財の中間)第3号に指定。

○ 発掘出土井戸
2001年に公園内で発掘されたもので、上部の一部を復元したもの。李氏朝鮮時代の1504年にここにあった円覚寺が閉鎖され、跡に民家が建てられた頃飲料水を得るために掘られた井戸と推測されています。

○ アンブイルグ台(日時計)
李氏朝鮮時代初期の日時計。ウンジョンガ(現在の鍾路)を行き来する人々に時間が分かるように高い台の上に設置したもので、1835年までは宗廟の前にありました。


すぐ横にはソウルの伝統通りとして地元の人をはじめ日本人などたくさんの外国人観光客でいつもにぎわう仁寺洞のメインストリートがあり、公園のななめ後ろには楽器の専門店街として有名な楽園商街(ナグォンサンガ)あり、とまさにソウルの中心部に位置する「タプコル公園」。しかし周りがどんどん変化しても、入口の門に刻まれている「三一門」という文字が表すように、これからも抗日独立運動の精神を伝える公園であり続けていくでしょう。

タブコル公園を後にして、地下鉄鐘路3街駅から梨泰院(イーテウォン)に向かった。


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仁寺洞をぶら~り

2009-03-22 07:32:47 | Weblog
昌徳宮を出て인사동 仁寺洞までは近い。 仁寺洞入口の観光案内所で案内図をもらいぶら~りする。

仁寺洞(インサドン、인사동)は、韓国の首都ソウルの鍾路区にある地域である。仁寺洞キルという通り沿いに多数の骨董品店・古美術店・陶磁器店・ギャラリー・喫茶店・伝統工芸品店・土産物店などが並ぶ、ソウルの文化の街として知られている。

仁寺洞はソウルの中心部にあり、朝鮮王朝時代(1392年 - 1910年)には王宮に勤める両班たちが住む屋敷が立ち並んでいた。今でも古い韓屋が仁寺洞付近に多く残っている。19世紀末には困窮した両班たちが伝来の品を売り払う店を開き、以来ソウル在住の外国人たちが訪れる骨董品売買の街となってきた。

1988年のソウルオリンピック以降は観光地化が進んでおり、外国から古美術買い付け目的の人だけでなく多くの一般観光客が訪れている。仁寺洞一帯に残る韓屋を使って伝統茶を出す喫茶店やカフェ・レストランが開店し、現代美術やデザインを扱うギャラリーなども増加している。

韓国の伝統茶仁寺洞の骨董品街の範囲は、安国洞ロータリーからタプコル公園に至る一帯である。メイン・ストリートの仁寺洞キルからは無数の路地が伸びているが、路地沿いには昔からの韓屋や塀が続いており、こういった場所にまで多くの店がある。

仁寺洞の骨董品店で売られているものは高麗や李朝の陶磁器、古い木製の書棚や箱などの家具、古書、書画などの類が多い。1万ウォン前後の安価なものから1億ウォンは下らない高価なものまで価格の幅は広く、ソウルの骨董品店の多くがここに集中し、韓国国内の他の骨董品街と比べて高価なものが売られている。客は地元の人たちから日本人・中国人・アメリカ人・フランス人などさまざまである。

日曜日は自動車が通りに入れない歩行者天国の日となっており、フリーマーケットなども開催されている。

メイン通りを横に入ったお店でプルコギのようなものを食べた5000ウォンだ。キムチがとっても美味しく何度もお代わりし満腹だ・・・。




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昌徳宮 、芸術的な建物が多数残る、李朝時代の政治の中心地

2009-03-22 07:00:03 | Weblog
宗廟の次は昌徳宮チャンドックン(창덕궁)だ。

昌徳宮チャンドックン(창덕궁)は芸術的な建物が多数残る、李朝時代の政治の中心地だ。 14世紀後半から20世紀まで続いた李朝時代。その華やかな時代を現在に伝える王宮の中でも、美しい景観で見る人を魅了する昌徳宮。都会の喧騒を忘れてゆっくり散策したい人におすすめの昌徳宮をご紹介します。

昌徳宮(チャンドックン)は1405年に、正宮である景福宮(キョンボックン)の離宮として建てられた宮殿だ。景福宮の東側に位置することから隣にある昌慶宮(チャンギョングン)とともに東殿と呼ばれた。文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱という)ですべての宮殿が焼失したが、1615年に第15代王光海君(クァンヘグン)が再建し、景福宮が再建されるまでの約270年間、正宮としての役目を果たした。朝鮮の宮殿の中で王が最も長く住んだ王宮である。
ほかの多くの王宮が戦争や火災、あるいは植民地時代の日本の支配によって本来の姿を多く失っているのに対し、昌徳宮は保存状態がよく李氏朝鮮時代の趣や生活様式を色濃く残している。自然との調和のとれた配置が卓越した点から1997年にはユネスコ世界遺産にも登録された。
観覧は自然と建物保存のため、指定された時間に案内ガイドによって行われる。外国人のための専門通訳案内サービスが充実し、韓国語のほかに英語と日本語、中国語での案内がある。日本語での案内は12時30分のため韓国語での案内の11時15分にて観覧することにした。一緒のメンバーは10人ほどで、内 日本人は6人だ。女性のガイドさんは韓国語大丈夫ですか?と念をおす・・。
※毎週木曜日は自由観覧。(時間の制限なく観覧可能)。


敦化門(トンファムン)
昌徳宮の正門として1412年(太宗12年)に初めて建てられた。今の敦化門は1609年(光海君元年)に再建され、現存している宮殿の正門としては最古のものである。朝鮮時代には2階の望楼に鐘と太鼓があり、時間を知らせていたというが今は残っていない。

錦川橋(クムチョンギョ)
1411(太宗11年)に造られ、現在ソウルに残っている最古の石橋である。橋の手すりには動物の模様が彫られている。当時、橋の下を流れていた川は今は影も形もない。

仁政門(インジョンムン)・仁政殿(インジョンジョン)
仁政門は王の即位式、臣下の朝礼、外国使臣の接見など、国の重要行事が行なわれた場所である。仁政殿は昌徳宮の中では最も規模が大きく、内部装飾にもその貫禄が感じられる。

宣政殿
王が日常の国事を議論したり、学者や官僚が儒教の経典や歴史を勉強したり、儒生たちを集めて試験をしたり、宴を行なったりした公式の執務所だった。現存する宮殿の中で唯一青い瓦の建物である。

御車庫
もともとは「賓庁(ピンチョン)」と呼ばれ、高級官僚たちがやって来て議論を交わしたところだった。当時、宮殿に出入りする官僚の中でも最高位の人たちが過ごしていた。しかし日本の植民地時代からここを車庫として利用した。全面がガラス張りの展示室で、車庫の中には籠(かご)や自動車が展示されている。

煕政堂(ヒジョンダン)
もともと王の寝殿だったが後に御前会議室として使われた。1917年の大火災で焼失し、今の建物は1920年に景福宮の康寧殿(カンニョンジョン)を移して建てられたものである。内部の応接室には西洋式の家具が置かれてある。

大造殿(テジョジョン)
王と王妃の寝殿であり、王とその家族が生活した中宮殿でもある。1917年、火災に遭い1920年に景福宮(交泰殿)を移して建てられた。ここで最後の王である純宗が崩御した。

スラッカン
大造殿(テジョンジョン)の西側には王室の台所であった「スラッカン」がある。西洋の建築様式で造られている。

※豆知識…「スラッカン」とは?
「スラ」は王の食事を高めて表現した言葉で、「スラッカン」とは王の食卓のこと。王は朝食と夕食の他に3回の間食があり、シッケや茶、果物類を食べていた。スラッカンには12種のおかずが並べられた。食事のときは女官4人が付き添い手伝ったという。彼女らは食事の前、王が食べるすべての料理を試食し、毒見をした。王の食事には毒物にあたると色が変わる銀製の箸が使われた。

楽善斎(ナクソンジェ)
1847年に後宮の処所として建てられた。王の死後、王の妾(めかけ)や女官などが残りの人生を送っていたという。日本の梨本宮家から最後の皇太子である李垠(イウン)に嫁いだ方子(まさこ)が晩年を過ごした場所でもある。

誠正閣(ソンジョンガク)または内医院(ネイウォン)
セジャが学者たちと儒教の勉強をした場所である。誠正閣の後ろの観物軒(クァンムルホン)は甲申政変(1884年)が起きた場所でもある。内医院では宮中医療機関として王と王族の病気を治療し、薬を調剤したりした。内医院には医女もいたが、男性医師の治療を受けられない女性たちの治療を担当した。

芙蓉池(プヨンチ)・芙蓉亭(プヨンジョン)
地を象徴する芙蓉池の中に、空を象徴する丸い島を造った。池の東南側にある角石には、飛び跳ねる魚の姿が刻まれている。芙蓉亭は建物や屋根が十文字の形になっている。池に向かって張り出した場所で、国王が釣りを楽しんだという。日本でも人気のドラマ「チャングムの誓い」でチャングムが散策したのもこの辺り。

宙合樓 (チュハムヌ)
1776年に建てられた2階建ての楼閣で、1階は宮中図書館である奎章閣の書庫となっており、2階は閲覧室である。

暎花堂(ヨンファダン)
王族の休息空間として使われた場所。暎花堂前の広場では、王が参席する中で科挙の試験が行なわれた。

演慶堂(ヨンギョンダン)・善香斎(ソニャンジェ)
1828年に建てられた民家形式の建物。中は男性が居住する舎廊棟(サランチェ)、女性の住まいである母屋(アンチェ)に分かれている。善香斎は書斎として使われた。


昌徳宮といえば秘苑(ピウォン)が広く知られていますが、後苑(フウォン)ともいいます。後苑は昌徳宮の庭園で、王様たちの憩いの場でした。300年を超える巨木と池、東屋など造園施設が自然と調和をなしたところです。前述の芙蓉池と芙蓉亭を初め、奥にはひっそりとした庭園が広がります。
四季折々で美しい姿を見せてくれる昌徳宮にぜひ一度足を運んでみてください。

1時間20分で観覧終了。池も凍っており寒いとっても観覧でした・・・・。

昌徳宮をでたあとお腹が空いたので仁寺洞に向かった。



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