探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

1月2日 野口勝一碑と茶阿局の墓がある宗慶寺

2011-01-24 00:54:13 | 会員の調査報告
正月早々、時間ができたので掃苔してみたカトケンです。

昨年はご愛読(?)ありがとうございました。本年もよろしくお願いします。

さて、文京区小石川に野史台『維新史料』をまとめた野口勝一の墓があると聞いて行ってみたところ、残念ながら墓はなく記念碑が寺の右傍にありました。(=写真)



野口は嘉永元年(1848)生まれ。幕末の志士で水戸藩士である西丸帯刀の甥にして、童話作家野口雨情の伯父に当たります。

野口がまとめた野史台『維新史料』は、幕府側の伝記史料も載せている本邦初の画期的な試み。

叔父の西丸が水戸藩の中でも初期の尊攘運動に参画し、その後潜伏して天狗対諸生の藩内抗争に巻き込まれず天寿を全うしたため、一新と瓦解を鳥瞰できています。

また埋もれた地域の活躍者も紹介し、幕末に最も近い時期にまとめられた最良の史料となっている点でいまだ他の追随を許していません。

さらに野口は農商務省に勤務、衆議院議員としても活躍しました。記録としては、『北茨城市史』別巻5~8に「野口勝一日記」が収められています。

碑は正面に「珂北野口先生碑」と書かれた題表は長州出身で茨城県令(今の知事)を勤めた野村素介により、裏面には織田完之撰並びに書。明治39年(1906)11月建之ながら昭和33年(1958)6月に野口雅夫・志賀正次再建とあります。

戒名は「北巌院高廓得趣居士」、没年月日は明治38年(1905)11月23日だそうで、改葬先はおそらく北茨城市と考えられます。

一方、この寺には徳川家康の側室茶阿局(六男忠輝の生母)の墓が本堂階段左脇にひっそりと建っています。(=写真)



宝筺印搭の碑面の正面には戒名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅尼」や葵の紋が確認できます。東京大空襲を同寺の保護により免れた大変貴重なものです。

没年月日は元和7年6月12日(1621・7・30)と伝えられます。家康六男忠輝の母として息子を案じながら生涯を閉じたようです。

徳川にゆかりがあり、維新史伝達者にも関係が深い同寺は、墓域もなくかつての武家屋敷小石川にあって都会にひっそりと残る隠れたスポットとなっています。

正月のせいか檀家の方々がひっきりなしに出入りする中、親切に茶阿局墓や野口の史料についてご教示いただき、感謝することこの上ない訪問となりました。

浄土宗 吉水山 朝覚院 宗慶寺
(文京区小石川4-15-17)
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河内貞芳氏の講演会

2011-01-06 21:36:55 | 会員の調査報告
暮れも押し迫った12月23日、幕末酒場・新選組屯所にて我らが仲間 河内貞芳氏による「侍たちの警視庁」と題した講演が行われました。

自らプロジェクターを持参し、沖縄を除く四十六都道府県をまわって得られた明治初年の警視庁の面々の掃苔から新たな成果も加わって、この世に1つしかない内容がビジュアルに展開されました。

中でも印象に残ったのは、西郷を生け捕りにしようとした安村治孝(谷中霊園)や坪井信良の実兄佐渡賢隆(富山市市営墓地)でした。

小弟が最も共感できるのは薩摩人も旧幕の連中も討幕・佐幕に関係なく人物をとりあげていることです。これがまたいろんな接点から幕末有名無名人に連なるからやめられません。

桑名の立見鑑三郎の実兄町田武須計しかり、福岡の月形洗蔵の甥潔しかり。

最後に得意の川路大警視の話、これが何度聞いてもおもしろいのです。

警察がまだできたばかりのころ、長州の広澤真臣に牛耳られる前に西郷が川路を欧州へ遣り、ポリスを導入したと。

「本国、なお武あり。これを用いらざるは失政の極みなり」--侍を使わない手はないと川路は進言、警察にかける情熱、いろんな形で国民や国へ奉仕する道があるのだと教えられました。

今後も明治初年の警視庁について深く鋭い追跡を続けられることを願っています。

一緒にがんばりましょう!掲載が遅くなってすみません。おつかれさまでした。

(カトケン)
コメント (1)
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